第006章 かなり進歩した
葉山飛鳥は即答した。
「いいよ、わかった。こっちで人を動かして探させる。……で、もう冬木家は出たんだろ? 今どこに住んでる? 必要なら、誰かに『大きいお城』でも買わせようか」
「いい。住むところはあるから」
冬木涼子は少し後ろめたくて、御堂柊吾のところに身を寄せていることも、結婚したことも――葉山飛鳥には言えなかった。
まだ、籍は入れていないけれど。
葉山飛鳥は無理に聞き出そうとはせず、軽く笑う。
「ほんと、あんたは地味すぎるんだよ。誰が信じる? 国際医学界でランキング1位の天才医師・葵が、高校も卒業してないお嬢ちゃんだなんてさ」
冬木涼子はふっと笑って、通話を切った。
そのまま糸が切れたみたいにソファへ崩れ落ちる。
生まれ変わってから立て続けにいろいろ起きて、もう限界だった。顔を洗って、ベッドに倒れ込むように眠りにつく。
目が覚めたのは、午後1時だった。
階下へ降りると、御堂柊吾がリビングのソファに座っていた。
手には経済書。白玉みたいにすらりと綺麗な指が、ゆっくりとページをめくっていく。
大きな窓から射し込む陽光が、彼の完璧な横顔を照らしていた。冷ややかで、高貴で、どこか雅。
――かっこよすぎる。
冬木涼子は見るたびにため息が出る。自分の旦那が、どうしようもなく格好いい。
にこにこと手を振る。
「おはよ……じゃないね。旦那さま、お昼だよ」
御堂柊吾はちらりと目を上げ、軽くうなずくと、また本へ視線を戻した。
冷たすぎない?
冬木涼子の笑みがすっと消え、代わりに拗ねた顔になる。
「ねえ、私が挨拶したのに。そんなに素っ気ないの、ひどいよ。『こんにちは』って言ってくれなきゃ」
御堂柊吾が眉をひそめる。
周囲の使用人たちは、思わず息をのんだ。
若様はもともとこういうお方だ。長年の友人である江崎悠白でさえ、こんな甘えた言い方はしない。しかも、若様は今だってちゃんと反応している――それだけでも十分すぎるくらいだ。
このまま調子に乗ったら、怒らせてしまう。
皆が固唾を呑んで見守る中、御堂柊吾は短い沈黙のあと、眉間の皺をほどいて淡々と言った。
「……こんにちは」
使用人たちは目を丸くした。
え、今の若様……? 本当に?
何かを悟ったように、あちこちでにやにやが広がる。
ただ一人、執事の田中だけはいつも通りで、にこやかに冬木涼子へ声をかけた。
「若奥様、お腹は空いていらっしゃいませんか。お食事にいたしましょう」
冬木涼子は驚いて目を瞬かせる。
「え、もう1時過ぎてるのに、まだお昼食べてないの?」
ダイニングへ向かう途中、田中がそっと声を落として耳元で囁いた。
「若様は冷たく見えますが……若奥様とご一緒に召し上がるのを、ずっとお待ちだったのですよ」
冬木涼子の顔がぱっと明るくなる。
足取りも軽く御堂柊吾のところへ戻り、勢いよく――
ちゅっ、ではなく。
「ばちんっ」と音がしそうなほど、頬にしっかりキスを落とした。
「旦那さま、優しい」
使用人たちはまた凍りついた。
若奥様、熱量が強すぎない……?
怒りを買うのではと怖くて直視できない。御堂柊吾は潔癖で、人が近づくこと自体を嫌う。まして女性など――。
それでも、こわごわ盗み見る。
御堂柊吾は表情を崩さず、冬木涼子の顔を手で押し戻した。
「……ふざけるな」
それでも、怒ってはいない。
使用人たちはさらに目を見開いた。
若奥様が来てまだ24時間も経っていないのに、若様への「襲撃」はこれで二度目だ。――部屋の中でもう一度あったことなど、彼らは知る由もない。
それ以上に信じられないのは、若様が拒絶していないことだった。
あり得ない。まるで夢みたいだ。
冬木涼子は御堂柊吾の冷たさにも腹を立てない。
最初のキスでは「近づくな」と言われ、三度目には「ふざけるな」。――かなり進歩している。
焦らない。ゆっくりでいい。
食後、田中が冬木涼子の隣で、相変わらず穏やかに切り出した。
「若奥様、本来であればご結婚後は新婚旅行へ……となるのですが、若様はお身体の都合もございます。しばらくは長旅は控える方針でして」
一拍置き、続ける。
「ご両親がお気を悪くなさらぬよう、若様はご挨拶に伺うことは可能だと申しております。手土産も少々ご用意いたしました。こちらが品目でございますが、ご確認いただけますか」
そう言って、リストを差し出した。
冬木涼子はざっと目を走らせ、言葉を失った。
――これが「少々」?
ざっくり見積もっても、最低で1億はする。
冬木家に渡すには、もったいなさすぎる。
冬木涼子の表情が晴れないのを見て、田中はすぐに補足する。
「もしご不満がございましたら、変更も可能でございます」
つまり、足りないなら上乗せもできる――そういう意味だ。口に出して言わないのが、名家の執事らしい。
冬木涼子は即座に首を振った。
「いらない。あの人たちに渡す必要もないし、会いにも行かない」
そう言いながら、御堂柊吾を見る。
彼も、こちらを見ていた。
視線が絡み、冬木涼子はへへっと笑う。
「私、冬木家とは縁を切ったの。だからさ……その荷物、私にくれない?」
お金に困っているわけじゃない。でも、あって困るものでもない。
御堂柊吾は眉を寄せる。
「縁を切った? なぜだ」
冬木涼子は肩をすくめるように言った。
「むしろ、もっと早く切るべきだったの。冬木家が私を引き取ったのは、私と冬木雨音がどっちもRHマイナスだったから。雨音は重度の再生不良性貧血で、いつも輸血が必要で……私は『血のストック』にされた」
淡々と続ける。
「子どもの頃ね、雨音はもっと私の血を抜くために、わざと怪我したりしてた。私は何度も、採血でショック起こすまで抜かれた」
あまりに軽い口調が、かえって痛かった。
使用人たちは呆然とし、次の瞬間、胸が締め付けられるような顔になった。
幼い子が、輸血でショックを起こすほど――。
冬木家は、人の心がない。
御堂柊吾の目が沈む。
彼は冬木涼子の身辺を調べ、恵まれない環境だったことは知っていた。だが、ここまでとは思わなかった。
養女であろうと、冬木雨音の命を繋いだ恩人であるはずだ。それを、こんな扱いをするなんて。
慰めの言葉を探しても、見つからない。経験した者にしかわからない痛みがある。何を言っても薄っぺらく聞こえてしまう。
重い空気を感じ取った冬木涼子は、御堂柊吾の腕に自分の腕を絡め、明るく笑った。
「ほらほら、みんな暗い顔しないで。昔はつらかったけど、今は旦那さまがいるし、海棠湾にはこんなに叔父さん叔母さんがいてくれる。私、全然平気だよ」
眉も目尻もやわらかく弧を描き、まるで小さな太陽みたいに笑う。
かつて何より欲しかった冬木家の「家族」は、前世の自分と一緒に死んだ。
これからは、自分を大切にしてくれる人を大切にする。
使用人たちも胸が熱くなった。
自分たちは雇われの身なのに、若様も若奥様も家族みたいに扱ってくれる。感動しないわけがない。
だからこそ、若奥様にはもっと、もっと優しくしよう――そう心に決める。
御堂柊吾はしばらく黙り、田中へ命じた。
「その品はすべて、若奥様名義に移せ。冬木家には渡さない」
「かしこまりました、若様。すぐ手配いたします」
田中は即座に頭を下げた。
冬木涼子は御堂柊吾の首に腕を回し、またもや大きな音がしそうなキスを落とす。
「旦那さま、最高。大好き。ちゅー」
