第007章 いつでもどこでもの告白
御堂柊吾「……」
どこでも構わずキスして、どこでも構わず愛の言葉を投げてくる。さすがに、まだ慣れない。
彼はそっと彼女の顔を押しのけ、淡々と言った。
「来るとき、何も持ってこなかったんだろ。必要なものがあるなら使用人に言え。買い物に連れて行かせてもいいし、家に届けさせてもいい」
そう言うと、カードを一枚差し出す。
「金が要るなら、これで払え」
冬木涼子は満面の笑みを浮かべた。
「わあ、悪いなあ」
……と言いながら、迷いなく受け取る。
金箔の縁取りが施された黒いカード。まるで身分証みたいな存在感だ。
涼子は我慢できずに尋ねた。
「これ、いくら入ってるの?」
「限度額なしだ」
御堂柊吾の声は相変わらず平坦だった。
冬木涼子のことは好きになれない。だが、嫁いできた以上、責任は負うべきだ。みすぼらしい思いをさせるつもりもない。
そんな彼の内心など、冬木涼子が知るはずもない。
黒いカードを握りしめたまま、嬉しそうにちゅっと一度キスする。これで自分も、夫に養われる側になったのだ。
もっとも、買うものがあるわけでもない。
幻月草はすぐには手に入らない。けれど御堂柊吾の病は待ってくれない。薬草を揃えて、病状に合わせた薬を調合しなければ。痛みを和らげ、発作の間隔を少しでも引き延ばすために。
……
夕方、冬木涼子はそのまま闇市へ向かった。
帰一盟はここに薬局を持っている。彼女は薬を受け取りに来たのだ。
途中、アイスクリーム屋の前を通りかかる。やけに美味しそうで、足が止まった。
涼子はスマホを取り出し、御堂柊吾にLINEを送る。
「旦那さま、あなたのカードで買い物したよ」
すぐに返事が来た。
「ああ」
涼子はさらに打ち返す。
「ありがとう旦那さま。愛してる。ちゅっ」
送信してスマホをしまい、アイスクリームをひとつ買う。ぺろぺろ舐めながら薬局へ向かう足取りは、のんびりそのものだった。
……なのに、その悠々自適をわざわざ壊しに来る人間がいる。
「冬木涼子?」
甲高い声。
涼子はぴたりと足を止めた。振り返らなくても分かる。聞き慣れすぎた声だ。冬木雨音の取り巻き、白石彩花。
白石彩花は涼子を見るなり、怒ったようにずかずかと近づいてきた。
涼子の質素な身なりを見て、彩花は面白がるように笑う。
「なにそれ、どんどん落ちぶれてんじゃん。冬木家に捨てられたって聞いたよ? 縁切られて、もう食べるものもないの? 闇市まで来て、野菜くずでも拾いに来たわけ?」
冬木涼子は冷ややかに一瞥しただけで、何も言わない。
白石家は病院を経営している。大きすぎもしないが小さすぎもしない、そこそこの規模の病院だ。院長は白石彩花の父親。
白石弘人と冬木紳助は友人で、冬木雨音が入院して採血が必要になるたび、搬送先は決まって白石家の病院だった。
白石彩花は冬木涼子と冬木雨音より三つ年上。涼子たちが小学校四年の頃、彩花は中学一年だった。
白石家は彩花を後継者として育てるつもりで、中学に上がった頃から病院で実習をさせていた。
採血を担当するのは、いつも彩花。
当時の彩花は何もできなかった。血管すら見つけられず、一度の採血で涼子の腕に何十回も針を刺した。細い腕は針穴だらけになり、青あざと腫れで真っ赤に膨れ上がった。
たまにうまく刺せたとしても、わざと抜いて、さらに何度も刺し直す。
冬木美蘭は怒るどころか、彩花をなだめてこう言った。
「いいのよ彩花ちゃん。まだ小さいんだから、たくさん練習しなきゃ。冬木涼子で手慣らししていいわ。あの子、痛みに強いから。
でも雨音には、ちゃんと上手になってから刺してね。雨音は痛いのが苦手なの」
思い出すほどに、笑えてくる。これが自分にとって一番大切だと信じてきた、いわゆる家族の愛情だった。
どうしてあの頃の自分は、あんなにも目が曇っていたのだろう。
しかも今の医術だって、冬木雨音の重度再生不良性貧血のために身につけたものだ。そうでなければ、雨音の病気が良くなるはずもない。
けれどもう冬木家とは縁を切った。今さら言うことでもない。
冬木涼子は無感情に彩花を見て、吐き捨てた。
「通せんぼしないで。どいて」
白石彩花の顔がかっと赤くなる。
「はあ? あんた何様? その口の利き方、私にしていいと思ってんの?
私が何しに来たか分かる? あんたみたいに安物拾いに来たんじゃない。帰一盟の薬局に用があるの」
その最後の一言で、冬木涼子は危うく吹き出しそうになった。
口元だけを薄くつり上げる。
「白石さんは、帰一盟の店で買い物できるだけで、自分の身分が上がった気になれるの?」
嘲るような言い方が、彩花の癇に障った。
以前の冬木涼子は、殴られても言い返さず、罵られても黙っていた。白石彩花と冬木雨音が優越感を得るための、都合のいい的。
それが今は、言い返すどころか皮肉まで飛ばしてくる。
白石彩花は完全に頭に血が上がり、指を突きつけて怒鳴った。
「帰一盟がどれだけ尊くて、どれだけ無敵か分かってんの? それを見下すとか、ありえないんだけど!」
喚き散らす途中で、彩花の視線が涼子の手首に止まった。
そこには、青黒い痕。昨夜、御堂柊吾が発作を起こしたとき、握り潰されるように掴まれてできたものだ。
白石彩花は腹を抱えて笑い出す。
「なるほどねえ。だからか。あんたみたいなバカが帰一盟を舐めるのって、帰一盟が何を意味するか知らないからでしょ?
その手首の傷、変態の旦那に虐待されてできたんじゃないの?
雨音の言ってた通りだわ。冬木涼子、あんたはそういう変態に嫁ぐのがお似合い――」
パァン!
乾いた音が響いた。
冬木涼子の平手が、容赦なく白石彩花の頬を打ち抜いたのだ。
白石彩花は呆然として、ふらつきながら数歩よろける。信じられないという顔で涼子を見た。
「……私を殴ったの?」
冬木涼子は冷たく口角を上げる。
「もう一度、私の夫を侮辱したら……殺す」
そう言い捨てて、冬木涼子はその場を離れた。
これ以上、相手をする価値もない。
白石彩花は頬の痛みと屈辱に耐えながら、涼子の背中を睨みつけた。
あれが、本当に自分の知っている、臆病で役立たずの冬木涼子なのか。
相手はただの変態男だというのに、守るような真似までして。
……どうせ、強がりだ。
白石彩花は震える指で冬木雨音に電話をかけた。
冬木雨音はすぐに出た。
本当は殴られたことなんて言いたくなかった。けれど繋がった瞬間、堪えきれずに吐き出してしまう。
「雨音、あの冬木涼子、頭おかしいんじゃない? 聞いてよ、私……殴られた。あいつ、私を殴ったの。ビンタしてきた」
電話の向こうで、冬木雨音の口元がひくりと引きつった。殴られたのはあなただけじゃない。私だって殴られた。
……とは言わない。
そんなことを口にしたら、相手に見下される隙を与えるだけだ。
それでも昨日の一撃を思い出すと、胸の奥がむかついて仕方ない。
冬木雨音は冷たく問い返した。
「もう、あの人はうちと縁を切ったんでしょ。あなた、まだ何か用があるの?」
