第008章 自分にとってあまりにも不公平だ
白石彩花はすぐ言った。
「別に大した用じゃないんだけどさ。さっき闇市で冬木涼子に会ったんだよね。
あいつ、私のこと殴ってきたくせに、見た感じ全然うまくいってなかったよ。全身安っぽい露店の服で、化粧もしてなくてさ。たぶん闇市で掘り出し物でも漁りに来たんじゃない?
それにさ、知ってる? 手に傷があったんだよ。絶対あの旦那に殴られてるって。考えただけでスカッとする……」
その言葉に、冬木雨音は一瞬きょとんとし、それから気分がふっと軽くなった。
ちょうど今、家族と夕食中だ。皆の視線が自分に集まっているのに気づくと、雨音は迷いなくスピーカーを入れた。
冬木涼子が虐げられている――こんな愉快な話、家族にも聞かせない手はない。
冬木雨音は続ける。
「どうしてそこまで惨めなの? ……確かに、かわいそうだね」
そう言いながら、善良で無害な顔を作って両親に向き直った。
「お父さん、お母さん、お兄ちゃん。涼子、あんなに困ってるなら、私たち助けてあげたほうがいいのかな?」
冬木美蘭は露骨に顔をしかめた。
「向こうから縁を切ったんでしょ。今さら何を助けるのよ。生きようが死のうが、うちには関係ないわ」
冬木颯真は肩をすくめる。
「まあな。でも、戻ってきて頭を下げるって言うなら、冬木家は飯の一口くらい惜しまない。タダの使用人として使えるなら、こっちに損もないし」
冬木紳助は冷え切った目で言い放つ。
「海棠湾に入った女は、その晩のうちに全員死ぬ。冬木涼子が生きて出てきたってことは、何か恥さらしな真似をしたんだろう。そんな汚れ物、たとえ将来土下座して戻りたいと言っても、関わらないほうがいい」
冬木陽斗も横から同調する。
「父さん母さんの言う通り。昨日、縁切りを言い出したのは涼子だろ。自分で選んだ道だ。虐待されて死のうが自業自得だよ。姉さん、優しすぎるんだって。あいつの生き死になんて気にするな」
その言葉を聞いた冬木雨音の胸に、甘い優越感がじわりと湧き上がる。
口元に浮かんだ、嘲りと得意が混じった弧は――どうしても隠しきれなかった。
……
闇市。
夜だけ開く市場だ。商売の種類は何でもあり、胡散臭い連中も混ざる。だからこそ、人はここを闇市と呼ぶ。
賑やかな通りを抜け、角を一つ曲がると、帰一盟の薬局が見えてくる。
喧騒の中にぽっかり空いた静けさ。店は広く、719の傘下でも最大規模の薬局だった。
冬木涼子は正面から入らず、専用の通路を使った。
責任者は五十歳ほどの男、佐伯荀。涼子が到着する頃にはすでに入口で待機しており、帽子を取って深々と頭を下げる。
「盟主様!」
冬木涼子は彼の手をそっと押しとどめた。
「佐伯おじさん、外では堅苦しいのはなし。中で話そう」
「はい、はい」
佐伯荀は身を引き、手で奥を示す。
「盟主様、どうぞ!」
彼は医家の出で、医術に通じ、かつては研究機関や組織が奪い合うほどの人材だった。
だが、どれほど腕があっても、父を救うことはできなかった。
四年前――父を救ったのは冬木涼子だ。
それ以来、彼は無条件で帰一盟に身を置き、冬木涼子に仕えてきた。
たとえ当時の涼子が十四歳のお嬢ちゃんに過ぎなくても、彼の中にあるのは敬意だけ。常に涼子を最上に置いている。
店内へ向かいながら、佐伯荀が報告する。
「葉山副盟主からも指示がありまして。幻月草だけは入手が難航しておりますが、それ以外の薬材はすべて揃えてあります」
冬木涼子は小さくうなずいた。
「佐伯おじさん、ありがとう。助かった」
薬局のホールを通り過ぎるとき、入口のほうがざわついた。
冬木涼子がちらりと目を向ける。白石彩花だった。
白石彩花は入口で、店員にへりくだるように丁寧に話している。その低姿勢は、冬木涼子の前で見せる態度とは別人のようだった。
冬木涼子は冷たく笑い、足を止めないまま佐伯荀に告げる。
「通達して。あの女は、帰一盟傘下の薬局すべて出入り禁止」
「承知しました」
佐伯荀は理由を問わず、即答した。
そのまま二人は五階へ上がる。
最上階。薬は一切置かれず、普段は誰も出入りしない。盟が冬木涼子のためだけに用意した研究室だ。
彼女の特製薬の多くは、ここで生まれている。
佐伯荀はフルーツジュースを一本手渡し、涼子に飲ませながら、準備していた薬材を運んできた。
「盟主様、幻月草以外はすべてこちらに。幻月草が見つかり次第、最優先でご連絡いたします」
冬木涼子はうなずき、礼を言う。
「ありがとう、佐伯おじさん。手間をかけたね」
佐伯荀は慌てて手を振った。
「とんでもない、とんでもない。盟主様がそんな……あ、そうだ」
彼は思い出したように、真新しいノートパソコンを差し出す。
「ご所望のパソコンです。仕様はすべてご指定通りに組みました。念のため、不具合がないか――」
「確認はいらない」
佐伯おじさんの仕事なら、冬木涼子は信じている。
彼女はノートパソコンを鞄に滑り込ませた。
佐伯荀は横で、言いたいことがあるのに飲み込んでいるような顔をしている。
冬木涼子は視線を向けないまま、淡々と言った。
「佐伯おじさん、言いたいことがあるなら言って」
「いえ……大したことでは。ただ、冬木家を出られたと聞きまして。本当ですか?」
探るような声。
冬木涼子は静かにうなずいた。
「本当」
その瞬間、佐伯荀の表情がぱっと熱を帯びる。
「出て正解です、正解! もっと早く出るべきだった。冬木家の連中、虫唾が走るほどのクズだ。よくもあなたにあんな真似を……!
考えもしないんです。あなたがいなければ、冬木家なんて何代かかっても上流名門の輪に入れやしないのに」
涼子が味わってきたものを思うと、腹が立つ。胸も痛む。
だが冬木家の人間は知らないのだ。冬木涼子が、彼らのためにどれほどのものを差し出してきたか。
帰一盟の有望な案件も、涼子は少なからず冬木家へ回した。
冬木颯真が契約を取れない相手、炎上したプロジェクト――その尻拭いも、裏で涼子が片づけてきた。
冬木涼子がいなければ、冬木家など何者でもない。
佐伯荀の憤りを聞きながら、冬木涼子はかすかに、乾いた笑みを漏らした。
そう。誰の目にも明らかなことを、当の自分だけが見ようとしなかった。
ほんの少しの、みじめなほど薄い家族愛を欲しがって――自分を押し殺しすぎた。
けれど今は、やり直せる。
もう一度生きる機会を得たのだ。まだ、間に合う。
冬木涼子は机の前に立ち、指の関節で、こつ、こつ、とゆっくり天板を叩く。
口元に浮かぶのは、骨まで冷えるような弧。
「佐伯おじさん。手配して。今まで冬木グループに回していた協力は、全部取り消し」
そして、淡く笑う。
「私がいなくても――冬木家が上流名門の椅子に座り続けられるのか。見せてもらおうじゃない」
