第1章
漆黒の深夜、薄い霧がふわりと立ちのぼり、冷え切った空気の中にじわじわと広がっていく。まるで天地そのものが霧色に沈んでしまったかのようだった。
一台の四駆が道路を疾走する。濃霧をぶち破って突っ走るその勢いは、背後から洪水か猛獣でも追ってきているみたいだ。
そんな深夜の静かな路肩に、白い服の長髪の女が立っていた。
闇の中で顔はよく見えない。ただ、背筋を伸ばしてまっすぐ立ち、腕を伸ばして空中でゆらゆらと振っている。まるであの四駆を呼び止め、便乗しようとしているかのように。
ブオォン――
四駆は女の横を猛スピードで通り過ぎ、冷たい風だけを置いていった。
止まる気配などない。むしろさっきより速度が上がったようにさえ見え、あっという間に霧の中へ消えた。
……
二十分後。
同じ四駆は、また同じ場所で路肩の長髪の女を見た。
女はさっきと同じ姿勢のまま、腕を伸ばしてゆらゆら、ゆらゆら。まるでそれしかできないみたいに。
今度はさらに速度を上げ、ブオォンと排気を残して走り去る。
……
さらに二十分後。
四駆は長髪の女を視界に入れた瞬間、キィィッと急ブレーキ。急ハンドルで反転し、潔いほどの決断で引き返した。情け容赦なし。
バックミラー越しに、女が白い歯を見せて笑ったように見えた。
濃霧の中で浮かぶその奇妙な笑みが、背筋をぞくりと冷やす。
……
車内の空気も、当然よくはない。
助手席の寺田大輔は後方を振り返った。そこにはもう長髪の女の影はない。
だが、この道がどんどんおかしくなっている。前にも後ろにも車が一台もいない。少し先は濃い霧で、何も見えない。
この道路はA市へ向かう幹線だ。普段なら賑やかで、寺田も何度も走ったことがある。こんな静まり返った空虚な状況など、見たことがなかった。
まるで天地の中に、彼らの車だけが取り残されたみたいだ。
寺田は震える声で言った。
「……もう、撒けたよな?」
運転席の比良恒一は顔を強張らせ、バックミラーをちらりと見た。
「……わからない」
寺田は視線を戻し、恐る恐る言う。
「俺たち、ずっと車一台も見てないんだぞ……どうすんだよ、どうすんだよ?! 俺たち、死ぬのか……」
彼らはあの女に、もう五回も遭遇している。
一時間以上走っているはずなのに、目的地には着かない。毎回、同じ地点に戻ってきて、そしてあの女が手を振っている。
最初に見たときは気にも留めなかった。
こんな山奥、道沿いに家一軒ない。そこに突然、女が手を挙げていたら――賢い人間なら停まらない。
そもそも比良恒一も寺田大輔も善人ではないし、厄介事に首を突っ込む趣味もない。無視して当然だった。
だが、二度目が来た。
二度目に見たとき、寺田はまだ同一人物だと気づかず、笑って茶化した。
「恒一、まだまだモテるじゃん。真夜中でも相乗り希望がいるとかさ。どうせ同じ方向なら、いいことしてやれば?」
比良は答えなかった。ただ、ハンドルを握る手に力が入り、速度を上げて突っ切った。
三度目。
鈍い寺田でさえ、さすがに気づいた。
――同じだ。
あの女、前の二回とまったく同じ。
頭皮がぞわっとし、鳥肌が一気に立つ。寺田は言葉を失った。
比良も同じだった。
彼は寺田より慎重で、二度目の時点で異常に気づいていた。どうしてこの女が、また前方にいる?
周囲の景色は見知らぬようで、どこか見覚えもある。比良は即座に判断し、アクセルを踏み込んだ――だが、少し走っただけで、またあの女が現れた。
アクセルはほぼ床まで踏み抜いている。
それでも、しばらくすると必ず、道端で手を振る長髪の女が見える。
そのとき比良は思った。
――道に化かされてる。そういう類のやつだ。
五度目に見たとき、彼は緊急で反転し、逆方向へ走った。
さすがに今度は戻らないだろう。そう信じたかった。
寺田は泣きそうになりながら、揺れる車内でシートベルトを締め、スマホを取り出して助けを呼ぼうとした。
だが、画面を見た瞬間、さらに絶望した。
「やべぇ! 圏外だ! 電話が繋がらねぇ!」
比良は歯を食いしばって短く答えた。
「……知ってる。二回目で試した」
寺田は声を震わせる。
「俺たち……もしかして――」
比良の顔色が鉄みたいに硬くなる。
「変なこと言うな。この世に幽霊なんているわけない。自分で自分を脅かすな。……特殊な磁場にでも入ったんだろ」
寺田は目を見開き、縋るように言った。
「特殊な磁場って、女も生むのかよ?」
比良は黙った。
停めるわけにはいかない。速度を落とすわけにもいかない。とにかくこの忌々しい場所から抜け出す、それだけだ。
寺田も同じだった。
車が止まった瞬間、死ぬ――そんな気がしてならない。
だが突然。
「うわぁぁぁっ! やべぇぇぇ!」
寺田が叫んだ。
比良はびくっとし、顔をしかめる。
「うるさい! 落ち着け!」
「落ち着けるかよ!」寺田は半泣きで叫ぶ。「ガス欠だ! もうガソリンがない!」
比良は言葉を失った。
……終わった。
何度目かの遭遇。
長髪の女は相変わらず腕を振っている。疲れ知らずみたいに。顔にはあの奇妙な笑み。
見ただけで背筋が寒くなる。
寺田は自分の肩を抱き、怯えながら言った。
「なあ……もうさ、乗せてやろうぜ。何周もしてるのに、あいつ別に何もしてこない。もしかしたら害する気ないのかも……俺らが助けたら見逃してくれるとか……。ガス切れたら俺ら歩いて逃げられないし、怒って殺しに来たら――」
比良は寺田を睨みつけた。
そして車は長髪の女の横を通り過ぎ、少し先――女の姿が見えなくなる地点で路肩に停めた。
比良は苛立たしげに髪を掻きむしる。
こんな胸糞悪い目に遭うなら、死んでも夜道なんか走らなかった。
「目的がわからない相手に、のこのこ近づけるか。どう死ぬかもわからないだろ!」
スマホをいじって助けを呼ぼうとするが、電波は一切ない。110も繋がらない。
まさに、天に叫んでも届かず、地に願っても響かない。
比良は時間を計算した。
「俺ら、0時過ぎに出て……女に遭ってから二時間ちょい。あと二、三時間で夜が明ける。……幽霊だなんだってのは、日光が苦手なんだろ。朝まで耐えれば助かる」
ここで待つ。朝が来るまで。
それが最善だと、比良は自分に言い聞かせた。
だが、いくら話しても寺田が返事をしない。
比良は眉をひそめ、寺田を見る。
寺田はシートベルトを握りしめ、前方を凝視していた。
何か、とんでもなく恐ろしいものを見た顔で。
比良の胸が、どくんと跳ねた。
ゆっくりと振り向く。
――いた。
長髪の女が、車の前に立っている。
そして、奇妙な姿勢のまま、こちらへ歩いてくる。
一歩。
二歩。
近づいてくる。
比良は誓って言える。
二十年以上イキってきた。怖いものなんて、家の親父くらいだと思っていた。
だが今は、手が震えてしょうがない。
彼はガタガタと手を動かし、エンジンをかけようとした。
寺田も我に返り、「早く! 早く出せ!」と泣き叫ぶ。
だが焦るほど、ミスは増える。
――エンジンがかからない。
コツ、コツ――
コツコツコツ――
窓を叩く音がした。
比良は身体を硬直させたまま、首だけをぎこちなく回す。
長髪の女が窓の外に立っていた。
それなりに整った顔立ち。だが血の気のない真っ白な肌。黒々とした瞳。
口元を引きつらせ、白い歯を見せて笑っている。その笑みは、無理やり引っ張ったみたいに不自然だった。
なのに、言葉遣いだけは妙に丁寧だ。
「こんにちは。すみません、乗せてもらえませんか?」
比良の歯が、カチカチ鳴る。
「す、すみません……ちょっと、都合が……」
女は眉をひそめ、首を傾げた。
そしてポケットを探り、何かを取り出して差し出す。
「お金、払います。急いで帰らないといけないんです。乗せてください」
寺田はもともとひどく怯えていたが、差し出されたそれを見た瞬間、さらに顔を引きつらせた。
――札じゃない。
死人に燃やす紙銭だ。
寺田は一言も発せず、白目を剥いてその場で気絶した。
ドサッ。
比良は寺田が倒れる音を聞き、心の底から思った。
……俺も気絶したい。
「い、いえ……結構です。お金はいりません……」
女は、なぜ彼がそこまで震えているのか理解できないらしく、手元の紙銭を見下ろした。
そして「あっ」と小さく声を漏らす。
「すみません。間違えました」
紙銭をしまい、またポケットを探る。
今度は別の紙を取り出し、差し出した。
「これなら大丈夫ですか? 足ります?」
比良の目の前に出されたのは、日本円だった。
……怖さが増した。
こんな芸当、普通じゃない。
受け取った瞬間に命を持っていかれる、そんな気がしてならない。
「い、いえ! 本当にいりません!」
「ありがとうございます。じゃあ、乗せてくれますか?」
「……」
断れるのか?
断ったら、怒って食われるんじゃないのか?
比良は、女の真剣な顔を見た。黒い瞳。白い頬。
拒否したら最後、血盆の口で一口――そんな妄想が脳裏をよぎる。
……寺田、役に立たなすぎる。
……
長髪の女は、車に乗り込んだ。
運転席の後ろ、後部座席に座る。
歩き方はぎこちなく、遅い。まるでゾンビみたいに不慣れな動きだった。まるでこの身体の使い方を、まだ覚えきれていないみたいに。
女が乗った途端、車内の温度が数度下がった気がした。
比良は目ざとく、女の口元が吊り上がるのを見た。
あの、満足げで不気味な笑み。
……終わった。
「座りました。出してください」
比良は、これは町へ向かう道じゃない、死へ向かう道だと思った。
震える手でエンジンをかける。
そのとき、寺田が幽霊みたいに目を覚ました。
頭を押さえ、窓の外を見る。女の姿はない。比良は発進しようとしている。
寺田は涙目で喜んだ。
「恒一! あの長髪の女、いなくなったのか?! 行った?!」
比良が必死に目で合図した、その瞬間。
後部座席から、女の声がふわりと落ちた。
「私のことですか? 行ってませんよ」
闇の中、白い顔と黒い瞳がこちらを見て笑う。
寺田は固まった。
次の瞬間――
バタン。
白目を剥いて、また気絶した。
比良は天を仰ぎたい気分だった。
女は首を傾げる。
「この人、どうしたんですか?」
比良は震える声で答えた。
「……大丈夫です。眠いだけです」
女は少し考えたが、追及しなかった。
「そうですか。もう遅いですし、寝るのは当然ですね。あなたも寝たいですか?」
比良は喉を鳴らして唾を飲み込む。
「……いえ、寝たくないです」
「わかりました。じゃあ、行きましょう」
「……はい」
比良は車を走らせた。
速くすべきか、遅くすべきかもわからない。ただ、早く朝日が出て、後ろの女が消えてくれることだけを祈っていた。
