第2章

  SUVはのろのろと走り続けた。道の両脇は相変わらず、溶けもしない濃霧と闇。違うのは、さっきまで路肩で手を振っていた妙な女がもういないことだ――いや、いる。いまは、後部座席に。

  畢恒は無意識にルームミラーへ視線を滑らせる。観察というより、警戒だ。長髪の女がいきなり飛びかかってきて、後ろから頭をかじってくるんじゃないか。そんな想像が勝手に膨らむ。

  だが女は、乗ってから特に暴れる様子もない。ただ、やけに勘がいい。

  畢恒が「さりげなく」ミラーを覗くたび、女の視線もまたミラー越しにこちらを捉えている。そして、にたり、と不気味な笑み。

  ――なのに。

  その笑みが、どこか「友好的」に見えてしまう自分が、いちばん気味が悪かった。

  また目が合った。女が唇を裂くように笑う。

  畢恒はぞくりとして、冷や汗がどっと噴き出す。反射で、引きつったまま「へ、へへ……」と笑い返してしまった。何か喋って空気を変えたい。だが、余計なことを言って地雷を踏むのが怖い。

  こういうときは、喋れば喋るほど損をする。

  ふいに、女が言った。

  「すみません。幕山がどこにあるか、ご存じですか?」

  「……」

  畢恒の頭が真っ白になる。

  幕山? どこだそれ。聞いたこともない。ここで「知らない」と言ったら、この女――幽霊が機嫌を損ねて命を取りにくるんじゃないか。かといって「知ってる」と言えば、今すぐ連れて行けと迫られるかもしれない。

  畢恒が黙っていると、女の表情がすっと落ちた。もともと血の気のない白い顔が、さらに陰気に沈む。

  「……あなたも、知らないんですか?」

  「……どこかで聞いた気がします。ちょっと、思い出してみます」

  その瞬間、女の顔色が変わった。驚いたように、嬉しそうに。黒々とした瞳が、ぎらりと光を帯びる。獲物を見つけたみたいに。

  「本当ですか? じゃあ早く思い出してください。私、いろんな人に聞いたのに、みんな知らないって言うんです。なのに――運がいい。あなたみたいな親切な人に会えた。乗せてくれただけじゃなくて、幕山も知ってるなんて」

  「へ、へへ……」

  畢恒は乾いた笑いで誤魔化すしかなかった。

  知ってると言えば詰む。知らないと言っても詰む。なら、いまは引き延ばすしかない。

  額の汗を手の甲で拭い、助手席へ目をやる。寺田大辅はぐったりと気絶したまま。

  ……羨ましい。気絶していれば、この女と向き合わずに済む。

  しかも、畢恒にはわかった。自分が「幕山を知ってるかもしれない」と匂わせた途端、女の笑みがいっそう柔らかくなった。柔らかくなればなるほど、陰が濃く見える。まるで、獲物に満足しているみたいに。

  ――今日はここで終わりか?

  窓の外では雪が強くなっていく。胸の奥も、それに合わせて重く沈んだ。

  畢恒はこっそりスマホを確認する。圏外。助けも呼べない。

  スピードを上げすぎても、落としすぎてもまずい。女の注意を引きたくない。苛立ちが募った、そのとき。

  隣から、乱れた息が聞こえた。

  ちらりと見ると、寺田大辅は目を閉じたまま拳をきつく握っている。いつの間にか起きている。だが、女にどう向き合うか決めかねて、寝たふりをしているのだろう。逃げ道でも考えているに違いない。

  畢恒は奥歯を噛みしめた。ムカつくが、いまは暴かない。ひとりが表に立ち、ひとりが影に回る。それが今の状況では得だ。

  走り続けて二十分ほど。

  畢恒の絶望に、ふっと希望が差した。さっきみたいに同じ場所へ戻っていない。進んでいる。確かに前へ。

  胸の奥が熱くなるのを押し殺し、平静を装ってハンドルを握る。

  さらに十分ほど走ったところで、霧の向こうにぼんやりと灯りが見えた。

  畢恒はもう耐えられなかった。アクセルを踏み込む。

  ――光がある場所には、人がいる。

  人間が、こんなにも愛おしい存在だったなんて。普段なら誰が寄ってきても鬱陶しいだけなのに、いまは違う。むしろ全員まとめて抱きついてきてほしい。多ければ多いほどいい。

  助手席の寺田も、薄目のままその光を見ていた。叫び出しそうなほど興奮しているのが伝わってくる。だが後部座席の女の圧が強すぎて、なんとか堪えたらしい。顔が真っ赤だ。全身の毛穴が「もっと速く」と叫んでいる。

  畢恒も同じだ。だが、ふとミラーで後ろを窺う。

  長髪の女は白い顔のまま、前方をじっと見ていた。もちろん、灯りも見えている。

  嫌な予感がした。

  案の定、女が言う。

  「前の道は、よくないです。別の道にしましょう」

  別の道?

  冗談じゃない。

  人がいる場所を避けたいんだ。人が多いと手を出しにくいから。せっかくのチャンスを捨てるわけがない。

  畢恒はできるだけ穏やかに、何も気づいていないふりをして言った。

  「この道がA市までいちばん近いです。あと一時間も走れば着きます。道を変えたら引き返すことになるし、時間がかかりますよ。下手したら夜が明けます。……急いで帰りたいんでしょう?」

  女の黒い目が、じっと畢恒を刺す。考えているのか、測っているのか。

  額にまた汗が滲む。

  畢恒は「何でもない」顔のまま、ぐっと踏み込んだ。

  ブオォン――

  車は矢のように闇を裂く。

  灯りが近づく。路肩に車が何台か停まっている。人影も見えた。立ったりしゃがんだりして、何か話している。

  ここで寺田が、ようやく「気絶」をやめた。わざとらしく驚いた声を出す。

  「前に人がいるぞ。何してんだ? 見に行こうぜ!」

  「そうだな。見てみよう」

  女は黙った。

  その黒い視線が、畢恒から前方の人間たちへ移る。畢恒は寒気に肩をすくめた。女が急に不機嫌になった気がする。楽しみにしていた何かを邪魔されたみたいに。

  ……楽しみって、まさか。

  SUVは待ちきれないように路肩へ停まった。

  近づいてわかった。そこにいたのは六人。男二人、女三人、それに小さな男の子。事故らしい。三台の車が道端でぐしゃぐしゃに潰れている。全員けがはしているが、動けている。生きている。

  ただ、警察も救急車もいない。

  畢恒はシートベルトを外しながら言った。

  「事故みたいだ。俺、ちょっと見てくる」

  いまは一秒でも、この女から離れたい。

  背後から、女の声が幽かに落ちてきた。

  「あなた、本当にいい人ですね。私、ずっと手を振ってたのに、誰も乗せてくれなかった。あなたしか、助けてくれなかった」

  「……」

  「……」

  畢恒と寺田の背筋が同時に凍る。

  何度も振り切ろうとしたのに、どれだけ走っても、また同じ場所で出会った。あの悪夢が蘇る。

  ――いまのは、皮肉か? 嘲りか?

  寺田は耐えきれなかった。慌ててベルトを外し、ドアを開けて飛び出す。

  バタン! バタン!

  ドアが乱暴に鳴った。

  畢恒も舌打ちする。

  (クソが)

  そして自分もドアを開け、逃げるように外へ出た。

  振り返る余裕などない。

  ……

  人が多いと、心は少しだけ強くなる。

  畢恒が見ると、男二人が興奮して言い争っていた。

  「お前がハイビームにしたせいで見えなかったんだ! だから突っ込んだ! お前のせいだろ!」

  「雪のあとで路面が滑るってわかってんのに、あんなスピード出すほうが悪い! 自業自得だ!」

  男の子は怯えきって泣き続けている。ダウンジャケットを掛けられ、母親らしい女に抱かれて宥められていた。別の女が間に入って止めようとしている。

  さらにもう一人、路肩にしゃがみこんで膝に顔を埋めている女がいた。つらそうだ。手の甲に血が滲んでいるが、意識はある。大けがではなさそうだった。

  寺田の目が輝く。

  「おい、ケンカしてる場合じゃない! 警察と救急だ! 電話したのか? いつ来る!?」

  止めに入っていた女が答える。

  「電話はしたわ。すぐ来るって」

  寺田は手を擦り合わせ、畢恒へ身を寄せた。

  「恒一、助かった! 警察が来たら一緒に行ける!」

  畢恒も同じ考えだった。もう車には戻りたくない。車ごと捨ててもいい。

  「……なんで俺が引き延ばす役なんだよ」

  「だってお前、……あの人と、わりと話せてたじゃん。俺が口出したら台無しにしそうで」

  「黙れ」

  寺田がへらっと笑いかけた、そのとき。

  長髪の女が、車から降りてきた。

  ぎこちない姿勢で車の脇に立ち、長い髪を風雪の中でゆらゆら揺らす。遠くから見てもわかる。陰気が、さらに濃くなっている。明らかに機嫌が悪い。

  寺田が喉の奥で呻いた。

  畢恒も、反射で一歩下がる。

  女は腕を伸ばし、こちらへ手招きした。風に乗って、幽かな声が届く。

  「戻って……戻ってください。早く……」

  畢恒と寺田は目を合わせ、互いの瞳に同じ恐怖を見た。

  戻るわけがない。絶対に。

  二人は戻らず、むしろ揃って一歩下がり、争う男たちの近くで「まあまあ」と止めるふりをした。だが安心できない。

  女が、こちらへ歩いてくる。

  一歩、また一歩。

  距離は十メートルほど。すぐだ。

  二人は「見えない」「聞こえない」ふりをしながら、じりじり後退した。最悪、走るしかない。警察は来ると言っていた。走って戻れば、途中で遭遇できるかもしれない。

  とにかく、女と一緒にいるよりはマシだ。いつ命が消えるかわからない。

  ――そのとき。

  畢恒は後ろへ下がった拍子に、踵が硬い氷塊にぶつかった。

  ぐらり。

  体勢を崩し、転びそうになって、咄嗟に隣の車へ手をついた。

  寺田が咳払いする。

  「恒一、足元――」

  だが、畢恒は返事をしない。車の窓に張りついたまま、微動だにしない。

  「……恒一? おい、恒一?」

  畢恒が寺田の手首を掴んだ。痛いほどの力で。目を見開き、信じられないものを見た顔で震えている。

  寺田も背筋が冷えた。

  「な、何だよ……」

  畢恒は震える指で、窓の中を示した。

  寺田が覗き込む。

  ――固まった。

  車内に、二人。

  運転席には男がいる。ぐにゃりと崩れた姿勢で、血と肉の塊みたいになっていて顔がわからない。

  だが助手席の女は、はっきり見えた。

  さっきまで、男の子を抱いて泣き止ませていた女だ。

  鼻を刺す、濃い血の匂い。

  寺田の歯がカチカチ鳴る。畢恒を見ると、畢恒の顔も青白く、掴む手が震えていた。

  ……終わった。どこもかしこも、まともじゃない。

  いつの間にか、長髪の女が二人のすぐ横に立っていた。

  女は車内の死体など見えていないみたいに、自然な仕草で二人の手――互いに掴み合っていた手を上から包むように握った。

  「ここで何をしているんですか。外は寒いです。車に戻りましょう。中は暖かいですよ」

  ゆっくり口角が上がる。自分では親切のつもりらしい、慈しむような笑み。

  ――歯が見える。

  人間がやれば、きっと親しみのある笑顔だろう。

  だが畢恒は、その白い歯を見ただけで膝が抜け、車体にもたれかかった。動けない。振りほどけない。あの男たちに「どういうことだ」と問い詰める勇気もない。

  目が熱くなり、恐怖の涙がこぼれた。

  寺田も呆然とした。気絶できるなら、もう一度気絶したい。だが地面は雪で、すぐ横の車の中には死体がいる。

  女は子供をあやすみたいに、やさしい声を出す。

  「行きましょう。外は冷えますよ」

  畢恒も寺田も、言葉が出ない。

  女はもう一度、にたりと笑い、二人の手を引いた。ぎこちない足取りで、車へ向かって歩き出す。

  二人は引きずられるように歩いた。言い争う男たちの横を通るとき、無意識に距離を取ってしまう。女は一人だが、ここにいるのは「一群」だ。そう思うだけで、足が速くなる。

  ――その瞬間。

  畢恒は違和感に気づいた。

  女の手が、冷たくない。

  ひんやりはしている。だが、確かに温度がある。

  幽霊に、温度があるはずがない。

  畢恒は目を見開き、女の手を見て、思わず口にした。

  「……手、暖かいんですか」

  寺田が目を剥く。

  「は?」

  前を歩く女が振り返った。口を裂くような笑みは相変わらずぎこちないが、そこにほんの少し、感謝と満足みたいなものが混じって見えた。

  「ええ。車の中が暖かかったから。もう、そんなに冷たくないんです。乗る前は……凍えそうでした」

  「……」

  畢恒は女の格好を見た。

  白い綿入りの上着。黒いズボン。黒い布靴。

  どれも古びていて、硬くて、暖かそうには見えない。

  畢恒は呆けたように呟いた。

  「……寒かったんですか」

  「はい。寒いです」

  女は悲しげに脚を少し上げてみせた。たったそれだけの動きが、ひどく大変そうだ。凍えた体で表情を作るのも難しいのだろう。だから笑い方も、手の振り方も、歩き方も、どこかぎこちない。

  靴底は濡れている。雪道を歩き続けたのだ。そりゃ冷える。

  畢恒の胸の奥で、何かがずれた。

  幽霊の演出だと思っていたものが、ただの貧しさと寒さのせいだったのか。

  女は首を少し傾け、素朴さの奥に不気味さを滲ませる笑みで言った。

  「あなたたち、本当にいい人ですね」

  畢恒は何も言えない。

  寺田も、何も言えなかった。

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