第3章
比良恒一は信じられなかった。道中ずっと自分を震え上がらせてきた長髪の女が、まぎれもなく生きた人間で――しかも、どこにでもいそうな貧しい女だなんて。
寺田大辅も同じだ。
あの長髪の女のせいで二回も気絶させられ、危うく漏らしかけたのに、相手がただの困窮者だったとしたら――自分の立つ瀬がない。これからどうやって顔を上げて生きていけというのか。プライドはどこへやればいい。
それに、さっきまで何度走っても抜け出せなかったあの道が、まさか全部まやかしだったとでも?
比良恒一と寺田大辅は、魂の抜けた顔で視線を交わした。
普段ならまるで噛み合わない二人が、この瞬間だけは妙に通じ合い――察しよく、口をつぐむ。
いちばん怪しく見えた長髪の女が「人」で、いちばん普通に見えた六人のほうが「人じゃない」なんて。
……考えても仕方ない。
今の最優先は車に戻って、一秒でも早くここを離れることだ。
三人がその場を離れかけたとき、さっきまで言い争っていた二人の車の持ち主が、興奮してついに手を出しそうになった。横で女が必死に止めている。抱きつくようにして「やめて!」と叫び、子どもがわんわん泣く。
その声が、いまは異様に恐ろしく聞こえた。
さっき自分たちが、あれに話しかけて、助けようとまでした――そう思うだけで背筋が冷える。
寺田大辅も比良恒一も振り返れず、足を速めた。長髪の女を追い越しそうな勢いで歩く。
背後ではまだ怒鳴り声が続く。
「もういい、もういい! お前と揉めるのも面倒だ! そこの二人を呼んで来い、どっちが悪いか判定してもらう!」
「こっちだって好きで揉めてるわけじゃねぇ! 判定するならしろ! おい! お前ら、行くな! こっち来て言え! 悪いのは俺か、こいつか!」
泣きながら止めていた女が、救いを見つけたみたいに比良恒一たちへ駆け寄ってきた。
逃げようとした比良恒一の腕をがしっと掴み、しゃくり上げながら訴える。
「お願い、止めて……! 私、どうしても止められないの。怖いの……助けて……!」
距離は五、六メートルはあったはずだ。声も、さっきまで後ろのほうから聞こえていた。
それなのに――ほんの一瞬で、女は背後に回り込み、比良恒一の腕を掴んでいた。
厚手の上着越しでもわかる。手のひらが、氷みたいに冷たい。
「お願い……ね? ちょっとだけでいいの。止めて……ね?」
青白い顔。乾いた血の跡。髪には血が絡み、凍りついて板みたいに固まっている。まるで頭に被せた蓋だ。
寺田大辅「……」
比良恒一「……」
断って、いいのか?
比良恒一は振りほどこうとした。だが女の手は血でぬめり、力は異様に強い。自分の腕力が蟻みたいに思えるほどだ。
しかも向こうでは男二人が、期待に満ちた目でこちらを見ている。
比良恒一は唾を飲み込んだ。
「すみません、家で急ぎの用があって……帰らないといけないんです。自分たちで、なんとか……」
寺田大辅も膝を笑わせながら同調する。
「そうそう、こういうのは当事者同士の話ですし……俺らが口出すのも……。警察、呼んだほうがいいですよ。警察の言うことじゃないと……」
行けるわけがない。
あの二人はもう「人」じゃない。しかもあの剣幕だ。どっちの肩を持っても、もう片方が納得するはずがない。殴り合いにでもなったら、巻き添えを食うのは自分たちだ。
ところが寺田大辅の言葉が終わるや否や、女は焦ったように言った。
「すぐ終わるの。ほんとに、時間取らせないから」
そう言って、比良恒一を引っ張って戻ろうとする。
握力が凄まじく、腕が折れそうだ。比良恒一は二歩ほど、ほとんど引きずられた。
逃げたい。突き飛ばしてでも逃げたい。
だが――この女、速い。異様に速い。走って勝てるのか? そもそも力でも勝てない。
比良恒一は寺田大辅に助けを求める目を向けた。
先輩、なんで見てるだけなんですか。
寺田大辅「……」
恒一、お前が死んだら、俺は毎年ちゃんと供養してやる。
比良恒一「……」
畜生。
絶望する比良恒一をよそに、女は嬉しそうに男へ叫ぶ。
「あなた! 人を連れてきた! この人に判定してもら――あっ!」
女の手の甲に、鋭い痛みが走った。
本当に痛い。痺れるほど痛い。女は反射的に手を引っ込め、目を見開く。
叩いたのは――長髪の女だった。
比良恒一はその隙を逃さず、即座に腕を引き抜いた。巨体を縮こまらせるようにして長髪の女の背後へ逃げ込み、ぶるぶる震える。
寺田大辅も目ざとく比良恒一の背後に隠れ、鶉みたいに小さくなる。
寺田大辅がこっそり比良恒一の服を引っ張った。
比良恒一は無視したかったが、寺田大辅が耳元で囁く。
「路肩……見ろ……」
路肩にしゃがみ込んでいた女が、泣きわめく息子を抱いてあやしている。ダウンジャケットがずり落ち、子どもの体が見えた。
血まみれの腹。裂けた腹部。
しゃがんだ女も、ふいに顔を上げる。
血と肉でぐちゃぐちゃの顔。眼球が片方、頬にぶら下がっている。
――そんな傷で動けるわけがない。
比良恒一はぶるっと震え、視線を逸らした。もう見られない。
叩かれた女は青白い顔のまま、怯えを滲ませて不満を漏らす。
「なんで叩くの……?」
夫らしい男も目を吊り上げ、こちらへ詰め寄ってくる。妻の仇を取るつもりだ。
比良恒一と寺田大辅は、心の中で叫んだ。
やばい。
逃げ道を探す。だが状況は悪くなる一方だ。
長髪の女は、叩いた女よりさらに白く見えた。顔つきは硬く、長い髪がふわりと揺れる。黒々とした目で相手を見据えた。
「こっちは急いで帰るの。手伝う気はない。それに、この人たちが言った通り、警察を呼んで決めてもらえばいいでしょ」
淡々と、言い切る。
「そもそも私たちが『こっちが悪い』って言ったところで、警察がそれに従うわけじゃない。無駄でしょ。時間の無駄」
女「……」
近づいてきた男二人「……」
たしかに、筋は通っている。
長髪の女は口角を持ち上げ、にこりとした。やさしいはずの笑みが、どこか不自然で怖い。
「だから、もう揉めるのやめて。路肩で待ってて。警察が来たら、そこで話せばいい」
身体をこわばらせたまま、二歩だけ前へ出る。
膝が曲がらないみたいに、脚がまっすぐ。ぎこちない歩き方。
ギュッ、ギュッ、と雪を踏む音。
揺れる黒髪ロング。
詰め寄ってきた男二人の足が止まり、同時にぞくりと肩を震わせた。
叩かれた女も、長髪の女の陰気さに耐えきれないのか、夫の背後へ逃げ込んで警戒する。
長髪の女が、もう一度だけ訊く。
「……いい?」
冷たい風に乗って、声が耳の奥へすうっと入り込む。
妙に丁寧で、妙に誠実で――だからこそ、余計に怖い。
青白い顔。ぎこちない笑み。
まるで墓から這い出てきたばかりで、人間の表情に慣れていないみたいだった。
女と夫は冷気を吸い込み、慌てて頷く。
「い、いい! いいです! 行ってください! 警察、待ちます!」
もう一人の男も喉を鳴らした。
「わかった、わかった! 待つから! お前ら、早く行け!」
比良恒一「……」
寺田大辅「……」
ほら見ろ。長髪の女のほうが、あの血まみれの連中より怖い。
だから間違えたって仕方ない。
悪霊より悪霊っぽいんだから。
長髪の女は、相手があっさり引いたことが嬉しかったのか、くるりと振り向いて比良恒一と寺田大辅へ微笑んだ。
「ほら、話せばわかるんだよ。ちゃんと話したら、すぐ納得してくれた」
そして、何事もなかったように言う。
「車に戻ろう。早く帰ろうね」
比良恒一は呆けたまま、ただ頷くしかなかった。
「……うん」
寺田大辅は涙を拭った。
悪霊より怖いのも、時には役に立つんだな……。
……
長髪の女が、ぎこちない姿勢のまま車に乗り込むのを、あの六人は見送った。
去り際、女は振り返り、腕を伸ばしてゆらゆらと手を振る。距離があって表情は見えないのに、なぜか背中が冷たくなった。
「さっきの二人、やばいんじゃねぇか」
「だよな。あの変な女に脅されてたんだろ」
「だから助けなかったのか……」
「警察が来たら言ってやろうぜ。助かるかもしれない」
……
比良恒一と寺田大辅は、そんな声など聞こえない。
聞こえていたとしても、泣けばいいのか笑えばいいのか、きっとわからなかった。
寺田大辅はシートベルトを締めながら、ぶつぶつ急かす。
「早く出せ、早く! ここから出よう! マジで出よう!」
今夜の出来事だけで、一生分の武勇伝が作れる。いや、作りたくない。
比良恒一はエンジンをかけ、車を動かした。前方に立つ「六人」を直視できない。
そのときようやく気づく。ヘッドライトが照らしているのに――あいつらの足元には影がない。
普通じゃない。
さっきは長髪の女に怯えきって、逃げることしか頭になかったから見落とした。
誤解していたとはいえ、長髪の女が助けてくれたのは事実だ。
比良恒一はバックミラー越しに後部座席を見た。
長髪の女は勘が鋭い。視線に気づくと、こちらを見返し――口を裂くように歯を見せて笑った。
満足げで、嬉しそうで、それでいてどうしようもなく不気味な笑み。
「へへ。車の中、ほんとあったかいね」
比良恒一「……」
