第5章
比良恒一は、人がパンをかじって前歯を折るところなんて見たことがなかった。しかも当の本人も、驚きと困惑が半々といった顔で、抜けた歯を両手にそっと受け止めている。
……と思った次の瞬間。
彼女は、前歯の抜けた隙間からスースー息を漏らしながら、また慎重にパンへ噛みつこうとした。
比良恒一は自分の歯まで疼く気がして、反射的にその手を止めた。
長髪の女はパンを抱えたまま彼を見上げ、きょとんとして言う。
「あなたも食べますか? ちょっと硬いですけど、食べられます」
いや、食べない。絶対に。
比良恒一は息を吸い込み、なるべく穏やかに言った。
「……俺が切るよ。これ以上、歯を痛めたら大変だろ」
……
比良恒一と寺田大輔は、家に金があるだけじゃない。親も祖父母も甘やかし放題で、子どもの頃から苦労らしい苦労をしたことがない。衣食だって、当たり前みたいに整えられてきた。
まさか人生で――
小刀と、たった一個のパンを相手に格闘する日が来るなんて。
それも「一口食うため」に、だ。
とにかく硬い。冷たくて、硬い。刃を当てては引き、当てては引き……何度も何度も擦って、ようやく薄い傷がつく程度。
比良恒一の額には汗がにじみ、しまいには「これ、パンのほうが俺のナイフに傷つけてないか?」と疑い始める始末だった。
――裏を返せば、あの女の歯は本当に強い。
神崎飛鳥が、心底ありがたそうに言った。
「ありがとうございます。こうすると、やっぱり食べやすいです。あなたたち、優しいですね」
比良恒一「……」
寺田大輔「……」
二人の表情が、言葉にならない方向へ固まった。
自分がこんなことをする日が来るなんて、想像したこともない。なのに妙に、長髪の女が気の毒にも思えてくる。
このご時世、ナイフで切れないほど硬いパンを食べてる人間なんて、そうそういない。
ようやく小さく切り分けた二切れは、確かに食べやすかった。神崎飛鳥も、さすがに次の歯が抜けるのは警戒したらしい。歯の本数自体は気にしないにしても、前歯がないと食べづらいのだろう。
寺田大輔は車内を漁ってミネラルウォーターを一本見つけ、彼女に渡した。水があるだけで、硬いパンもずいぶん楽になる。
比良恒一は前方の警官へ目をやり、それから切り出した。
「神崎さん。俺たちがずっと引き返しちまう理由、わかるって言ったよな。……どういうことなんだ?」
神崎飛鳥は、どこかよだれを飲み込むような顔で言った。
「あなたたち、邪気がついてます」
……いい匂い。
その一言で、比良恒一と寺田大輔の背中がひやりと冷えた。
「邪気? 俺たちに? そんなわけないだろ! 変な場所なんて行ってねぇぞ!」
神崎飛鳥はもう一度、くん、と鼻を鳴らす。間違いない、とでも言うように。
「あります。たぶん、何かに触ったんじゃないですか」
比良恒一は記憶を必死に探ったが、妙なものに触れた覚えは出てこない。寺田大輔も眉を寄せる。
自分たちが不真面目なのは認める。だが、せいぜい遊んで飲んで、女を眺めて――それくらいだ。そんなもので、厄介なものが憑くのか?
とはいえ、今は原因探しより目前の危機だ。
比良恒一が言う。
「その邪気のせいで、俺たち一晩中ぐるぐる戻されてたってことか? じゃあ今、警察に頼んで乗せてもらって帰るのは……」
神崎飛鳥は少し首を傾げた。
「たぶん、無理だと思います。邪気が消えるまで、周りの人も巻き込まれるかもしれない。そうしたら、みんなで迷子になります。でも……やってみないと、私も断言できません」
比良恒一の喉が乾く。
「無理だったらどうするんだよ……もう、手はないのか?」
寺田大輔も焦って食い下がった。
「そうだよ! 一晩中ここで迷い続けるとか勘弁してくれ! 次に何が出るかわかんねぇし……俺、もう幽霊はおかわりいらねぇ! 神崎様、邪気ってやつ、どうにかできないのかよ!」
神崎飛鳥は淡々と言った。
「この邪気は、人は殺しません。せいぜい運が悪くなるくらいです。怖がらなくていいです」
……運が悪い、の中身が「色んな幽霊に会う」なら、十分すぎるほど怖い。
比良恒一と寺田大輔は、むしろ顔色を悪くした。
本当は神崎飛鳥、こういうものの対処は昔から「口」でやってきた。彼女自身が幽霊で、供えられることも弔われることもなく、腹が減れば自分で探すしかない。
悪霊の気配は特にうまい。邪気のついたものだって、十分つまみになる。好き嫌いもしない。
――だから、思う。
もしかして自分が何でもかんでも食い散らかすから、神様が見かねて雷でぶった斬ったのでは、と。
問題は、今の自分にそれができるかどうかだ。パンをかじって前歯が抜けるくらい、今は脆い。
比良恒一と寺田大輔は、長髪の女の顔に「困った」が浮かんだのを見て、心臓がひゅっと縮んだ。
青白い顔に出るほどの困り顔――それは相当だ。
「……今夜、終わったんじゃ」
二人の手のひらに冷や汗が滲む。
神崎飛鳥が言った。
「とりあえず、やってみます。だめなら、夜が明けてから動きましょう。怖がらないで。私が守ります」
比良恒一と寺田大輔は同時に息を吐いた。
「お願いします、神崎様」
長髪の女が何か儀式めいたことをするのかと思いきや、彼女はただ、二人へ少し身を乗り出しただけだった。黒いロングヘアがさらりと揺れる。艶があって、妙に綺麗だ。
寺田大輔は緊張すると口が止まらない。
「女の人ってさ、髪って下ろしてるの好きなの?」
今日まで、長い髪が怖いなんて思ったことはない。むしろ色っぽいと思っていた。だが今夜で認識が叩き壊された。たぶん一生、トラウマになる。
長髪の女は黒い瞳をゆっくり動かして彼を見た。しん、と静かに数秒。
寺田大輔は「やべ、地雷踏んだ?」と胃がきゅっとなる。
そのとき、彼女が素朴に言った。
「下ろしてると、あったかいです」
「……」
あまりにも、素朴。
寺田大輔は言葉を詰まらせた。
怖いのに、なんでこんなに可哀想に見えるんだよ。
比良恒一も、何も言えなくなった。
神崎飛鳥は二人の複雑な心情など気づきもしない。近づくほど邪気が濃くなる。舌先で唇をなぞり、昔みたいにそのまま吸い込もうとする――が、今は人間の身体だ。
食って腹を壊したらどうする?
……いや、恩を返すのは自分の美徳だ。腹を壊すなら、耐えればいい。
彼女はほんの一瞬だけ迷い、それから二人にまとわりついた邪気を、すうっと腹の底へ吸い込んだ。
悪くない味だ。しかも腹の空きが、さっきより少し引いた。
比良恒一と寺田大輔は、しばらく待っても彼女が何か「した」ようには見えなかった。だが不思議と、胸の奥に刺さっていた冷たさが薄れていく。
空気の圧も、軽い。
比良恒一が恐る恐る言う。
「……え、終わり? もう?」
寺田大輔も目を丸くする。
「終わったのか? 早すぎね?」
神崎飛鳥は元の姿勢に戻り、気遣うように言った。
「邪気は消えました。ただ、これから数日は運が悪いかもしれません。夜はあまり出歩かないで、昼は日なたにいるといいです」
それだけ?
比良恒一と寺田大輔は顔を見合わせた。
何をしたのかはわからない。だが彼女の顔には、どこか妙な満足感がある。まるで腹いっぱい食べたみたいな――
いや、見間違いだ。そうに決まってる。
ともかく、長髪の女は知っていることが多い。やり方も、変に大げさじゃない。少なくとも、祖父が呼んだ胡散臭い陰陽師よりはよほど信用できる。
二人はもう、この世に怪異があることを疑えなくなっていた。
比良恒一が言う。
「じゃあ、A市に向かおう。今度こそ、変なことが起きませんように」
寺田大輔も全力で頷いた。
「マジで、もう夜道は懲りた」
車は発進し、仮設の規制線を避けて先へ進む。比良恒一は窓の外を何度か見た。事故から時間が経ったのだろう、横倒しの車がいくつか残るだけで、真っ白な雪がすべての痕跡を覆い隠していた。
その後の道は驚くほど普通だった。対向車もいる。前を走る車もいる。
寺田大輔は感極まって涙ぐみ、後部座席へ振り返りながら叫ぶ。
「神崎様すげぇ! 神崎様って、隠れて修行してた除霊師とか!? 俺らの恩人だよ、ほんと……!」
さっきまでの恐怖はどこへやら、今や「神崎様」を連呼している。
神崎飛鳥は後部座席で褒められ、ふわふわと気分が浮いた。青白い頬にも、うっすら赤みが差す。
比良恒一も気が楽になり、バックミラー越しに見える長髪の女が、さっきほど怖くなくなっていた。小さく笑って言う。
「神崎さん、今夜は本当に助かった。あんたがいなかったら、俺たちどうなってたかわからない。……もし何か困ったことがあったら、俺に言ってくれ」
寺田大輔もすぐ乗っかる。確かに不気味ではある。だが「すごい人」ってのは、だいたい変わっているものだ。多少の特異さは受け入れるしかない。
比良恒一がふと、確認するように言った。
「なあ神崎さん。俺たちが邪気を持ってたから、ああいうのに会い続けたってことだよな?」
寺田大輔も真面目な顔になる。
「今日のことがなかったら、俺、幽霊なんて信じなかったぞ」
バックミラーの中で、長髪の女が黒い目を開いたまま比良恒一を見た。
「はい。邪気は邪気を呼びます。邪気の濃いところに集まるんです。あなたたちは影響を受けて、普段は見えない魂が見えるようになっていました」
二人は腑に落ちた。
なるほど。だからか。
だが、その安堵と生還の喜びは、長く続かなかった。
比良恒一の表情が、ゆっくり固まっていく。寺田大輔の笑みも、ぎこちなく消えていく。
二人は互いを見た。
そして同時に、ぞくりと震えた。
――邪気は、邪気の濃いところに集まる。
もしそれが本当なら。
俺たちが今夜、最初に会った幽霊は――長髪の女だった。
比良恒一はバックミラーを見た。
黒い瞳と目が合う。
長髪の女は口元を持ち上げ、素朴な笑顔を作った。
