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法律事務所に着くと、ジョーが火がついたみたいに駆け寄ってきた。
けれど、口を開きかけた瞬間――私の首筋に残る痕に気づき、ぴたりと固まる。
反射的に襟を引き上げて隠し、何事もなかった顔で問う。
「……例の件、何かあったの?」
我に返ったジョーは、顔をこわばらせた。
「ヴィクター・ファミリーの案件です。葛城研二のほうが急に担当窓口を変えてきました。今日の午前中に、これまでの全記録と証拠を、向こうが指定した新しい弁護士に引き継げって」
ヴィクター・ファミリー。
マンハッタンでもっとも名が知れ、同時にもっとも恐れられているマフィアの一族。
なかでもドンは、手段が容赦ないことで有名だ。武器の密輸にドラッグの売買――噂の規模はニューヨークどころか全米に及ぶ。
ただし、そのドンは徹底して表に出ない。公の場に姿を見せず、顔を知る者はほとんどいない。
少し前、そのヴィクター・ファミリーが私のところへ来た。
巨額の資金移動が絡む資金洗浄事件の弁護を引き受けろ、と。
私は昔から、マフィア絡みの依頼は断ってきた。
祖母が――この世でいちばん私を愛してくれた祖母が、マフィア同士の銃撃戦に巻き込まれて死んだからだ。
人に優しく生きた祖母は、死んだあとでさえ正義を求めることを許されなかった。誰も声を上げない。警察でさえ距離を置いた。
私は棺の前に崩れ落ち、喉が裂けるほど泣いて誓った。二度とあいつらと同じ泥には足を踏み入れない、と。
けれどヴィクター・ファミリーは、簡単には引かなかった。
拒めば弁護士人生どころか命がない――そういう相手だ。
そこで葛城研二が「俺が引き継ぐ」と言った。
最初は迷った。だが彼は、ツテがある、別の弁護士に回す、ヴィクター・ファミリーを怒らせない――そう何度も言い切り、私は渋々うなずいた。
それが、たった一週間で――こんなことになるなんて。
「新しい窓口って、誰?」
自分のオフィスへ足早に向かいながら聞く。
ジョーが記憶を探るように眉を寄せた。
「葛城研二の秘書です。名前は……村上朱里、だったはず」
その場で足が止まった。
心臓の奥に、冷たいものがすっと流れ込む。
村上朱里は、大学を出たばかりのはず。弁護士資格すら持っていない。
そんな女に、ヴィクター・ファミリーの案件を?
葛城研二は、そこまで彼女を信じているのか。
胸の内で乾いた笑いが鳴る。私はジョーに手を振った。
「……私の部屋に通して」
ほどなくして、ドアが開く。
甘ったるい、やけに馴染みのある香水がふわりと流れ込んできた。
顔を上げると、村上朱里がきっちりしたスーツ姿で立っている。
あの頃の無垢は消え、代わりに「勝った女」の傲慢さが眉間に貼りついていた。
「ノックもできないの?」
私は視線を落とし、書類をめくる手を止めない。
「莉緒さん、研二に言われて来たの」
ヒールを鳴らしながら、朱里が机へ近づいてくる。
「彼、あなたと別れたばかりでしょ。だから会いたくないんだって」
私は椅子の背にもたれ、冷たく見上げた。
「葛城研二は人材不足? こんな重要案件に、経験ゼロの新卒秘書を寄越すなんて」
朱里の笑みが一瞬ひきつる。だが、すぐに顎を上げた。
「莉緒さんの怒りは分かる。でも恋愛ってそういうものよ。彼があなたを愛さなくなったからって、私に八つ当たりしないで」
「愛さなくなった」
その言葉が、胸の底にある火種を一気に燃え上がらせた。
本当は案件の危険さもあって、まだ迷いがあった。
でもこの顔、この口ぶり――私の中の負けん気が、完全に目を覚ました。
私はゆっくり立ち上がり、両手を机につく。身を乗り出し、薄く笑った。
「欲しいなら、いいわ。……私に頼んでみなさい」
朱里が呆然とする。顔色が青くなり、次いで赤く染まった。
「松崎莉緒! いい加減にしなさいよ! 研二が言ってたわ。あんたが昔、命を救ったから仕方なく付き合ってただけ。本当はとっくに別れたかったって! その顔を見るたび、吐き気がするって――」
パァン!
乾いた音が、室内に弾けた。
私は迷いなく朱里の頬を打っていた。
ここは私の職場だ。浮気相手ごときに、踏み荒らされる筋合いはない。
朱里は頬を押さえ、信じられないという顔で目を見開く。次の瞬間、涙がぶわっと溢れた。
「まだ夏でもないのに、蠅が多いこと」
私は手首を軽く振り、何事もなかったように言う。
「用はそれだけ?」
「……覚えてなさいよ!」
朱里は睨みつけ、みっともなく踵を返して飛び出していった。
弁護士として、暴力は理性的じゃない。
それでも後悔はなかった。むしろ胸がすっとした。積もりに積もった怒りが、ようやく少し抜けた気がした。
呆気に取られているジョーを一瞥し、私は席に戻る。声も表情も、元の温度へ。
「ヴィクター・ファミリーの件は、私が続けて担当する。フォローをつけて」
半分は意地。半分は好奇心。
葛城研二が、あんな女を寄越してまで私を侮辱しに来た理由――その「中身」を、私は知りたかった。
ジョーは何か言いかけたが、結局うなずいて出ていった。
一人になった部屋で、私は深く息を吸う。
分厚いヴィクター・ファミリーのファイルを開き、ページを一枚一枚めくっていく。すると、ある写真で指が止まった。
中堅幹部らしき男。黒いスーツで高級車の横に立っている。
目を引いたのは、ラペルにつけた紋章――ヴィクター・ファミリーの管理層の印だ。
そこに刻まれているのは、威を張る龍。
……見覚えがある。
眉を寄せ、記憶を掘り起こす。昨夜の男――あの男性エスコートの胸元にも、同じ龍の紋章があった気がする。
写真を持つ手が、小刻みに震えた。
背筋に氷が走り、頭のてっぺんまで冷え切っていく。
まさか。
一晩中、狂ったみたいに絡み合った、氷みたいな青い瞳のあの男は――ヴィクター・ファミリーの人間なの?
