5
一睡もできなかった。
浴室の鏡に映っているのは、血の気の引いた、疲れきった顔。
法廷では舌鋒鋭く、負け知らず――そんな松崎莉緒が、いまは目の奥に、拭いきれない怯えだけを残している。
私は、悪魔に触れてしまった。
その認識が氷水みたいに四肢へ染み込み、骨の髄まで冷やしていく。
冷静になれ、と自分に言い聞かせる。ウォークインクローゼットへ向かい、糊の利いたスーツスカートに着替え、精巧にメイクを整えた。職業という名の鎧で、内側の恐怖を幾重にも包み込むために。
午前中は地獄みたいに長かった。オフィスの椅子に座っているのに、書類の文字が頭へ入ってこない。視線は勝手に窓の外へ流れてしまう。
黒い車が通るたび、心臓がひゅっと縮む。
11時59分。ジョーがノックして入ってきた。表情がどこか妙だ。
「莉緒、下に男の人が来てる。あんたの約束だって言うんだけど」
鼓動が一拍、抜け落ちた。ペンを握る指先が、きゅっと強張る。
「分かった」
声だけは平らに保って立ち上がり、コートとバッグを手に取った。
法律事務所の前。黒いベントレー・ミュルザンヌが路肩に静かに停まっている。控えめなはずの佇まいが、逆に逃げ場のない圧を放っていた。
ウィンドウがゆっくり降り、冷たい横顔が覗く。――六条修介ではない。
運転手が降りてきてドアを開け、深々と頭を下げる。
「松崎さん。六条さんがお待ちです」
息を吸い込み、私は乗り込んだ。
広い車内には、彼の体温の代わりに、シガーとモミの木が混ざり合った匂いだけが漂っている。まるで昨夜の残り香。
車は滑るように流れへ紛れた。窓の外の街並みが飛ぶように後退していく。私は、未知の深淵へ運ばれている――そんな感覚に飲み込まれる。
辿り着いたのは会員制クラブの玄関だった。
警備は厳重で、予約がなければ中へ入れない類の場所。案内役に導かれ、静かな廊下を抜け、個室の前まで連れて行かれる。
扉が開いた。
窓際のソファに、六条修介が座っていた。指先で金属のライターを弄びながら。
今日は深いグレーのカジュアル。仕立ての良さが体の線を際立たせ、より背が高く、長く見える。スーツの窮屈さが消えた分、近寄りがたい冷気は少し薄れた。代わりにまとわりつくような、怠惰で危険な色が増している。
彼が目を上げた。
氷青の瞳。深海のように静かなのに、見つめられた瞬間、平気で溺れさせる目。
「座れ」
短く言い、向かいのソファを示す。
私は動かなかった。視線を、ローテーブルに置かれたクラフト紙の書類袋へ落とす。
「私のものは?」
六条修介の口元が、かすかに弧を描く。ポケットから、あのサファイアの片耳ピアスを取り出し、掌に載せた。
窓から射す陽が宝石に当たり、きらりと眩しい。目の奥が、つんと痛む。
「松崎弁護士は、ずいぶんお急ぎだな」
余裕たっぷりの眼差し。罠に掛かった獲物を眺めるみたいに。
「私たちは取引しただけ。取引が終われば、互いに無関係です」
必死に平静を装い、一語ずつ押し出す。
その言葉に、六条修介はくつ、と喉で笑った。そして立ち上がり、私へ歩み寄ってくる。
背が高い。私より頭ひとつ以上。距離が詰まるたび、空気が薄くなる。
「松崎弁護士。本気で思っているのか。あの夜が、ただの取引だったと」
鋭い視線が、薄い鎧ごと貫いてくる。
私は反射で一歩下がった。――背中が冷たい扉板に当たり、逃げ道が消える。
「……何がしたいの?」
噛みしめた声に、自分でも気づかない震えが混じった。
六条修介は答えない。代わりに手を上げ、指先で私の頬をなぞる。最後に耳たぶへ触れた。
「松崎莉緒。28歳。ニューヨーク大学ロースクール博士。実務7年、無敗。父は大学教授、母はピアニスト。母は3年前に病死。ピーナッツアレルギー。無糖のブラックコーヒーが好き……」
一つ言われるたび、顔から熱が抜けていく。公開情報もある。だが――ここまで細部は、葛城研二ですら知らないはずだ。
血が凍る。背骨をなぞる寒気が、頭頂まで一気に突き抜けた。
「……私を調べたの?」
「準備して動くのが好きなんだ」
六条修介は手を引き、ピアスを私の掌へ置いた。温かい指腹が、掌紋をかすめる。ぞわり、と生理的な震えが走る。
「それに……自分の寝相手のことぐらい、把握しておきたい」
最後の言葉は、囁くみたいに軽い。なのに心臓へ落ちた重みは、鈍器だった。
屈辱と恐怖が絡まり、体が勝手に震える。
「あなた……いったい、誰なの?」
掌のピアスを握り込む。金属の角が皮膚に食い込み、痛みが理性を呼び戻す。
「俺が誰かは重要じゃない」
六条修介は一歩退き、ソファへ戻った。脚を組み、気怠げに背を預ける。
「重要なのは、松崎弁護士が引き受けたヴィクター・ファミリーの案件だ。俺は、あれに興味がある」
ヴィクター・ファミリー――。
頭の中で、ぶん、と音がした。点と点が結ばれ、最悪の形で確信に変わる。
「意味が分かりません」
冷静でいろ、と自分を押さえつける。弁護士の本能が、目の前の状況を切り分け始める。
「分かるさ」
六条修介の視線が、あの書類袋へ落ちる。
「この案件の闇は、お前が想像してるよりずっと深い」
彼の言葉が石みたいに沈んで、私の乱れた心の底を叩く。波紋だけが広がっていく。
「忠告はいりません」
冷たく言い捨て、私は踵を返した。この息苦しい部屋から、一秒でも早く離れたい。
「金曜の19時。迎えに行く」
背後から届く声。相談ではない。拒否を許さない通達。
「案件の話をしよう」
足が止まる。振り返らない。答えもしない。
「そうだ」
追い打ちみたいに、彼が付け足す。
「これからは葛城研二と村上朱里には近づくな。時間の無駄だ」
私はドアノブを強く握り、扉を開けた。ほとんど逃げるように個室を飛び出す。
行きと同じ車に乗ると、背もたれへ崩れ落ちた。全身から力が抜ける。
掌のピアスは冷たく硬い。さっきの出来事が夢じゃないと突きつけてくる。
私はマフィアに関わってしまった。しかもそのマフィアは、私のことを恐ろしいほど把握していて、私を自分の世界へ縛りつける気でいる。
どうする。拒む?
彼の手段を思えば、拒んだ末路が祖母より惨いものになっても不思議じゃない。
だが従えば、私が最も憎む連中と同じ流れに身を投げることになる。あの日、棺の前で立てた誓いを、自分で踏みにじることになる。
車が法律事務所の前に停まった。ふらふらと降り、黒いベントレーが角を曲がって消えるのを見送る。
私は気づかなかった。
少し離れた場所に停めた、目立たない車の中で、誰かが電話を取ったことに。
「ボス、松崎さんは戻りました」
電話の向こうで、六条修介は巨大なガラス窓の前に立ち、マンハッタンのきらびやかな景色を見下ろしていた。
氷青の瞳の奥で、底の見えない暗流がうねる。
「見張れ」
淡々とした声。それなのに、明確な所有が滲む。
「近づこうとする人間は、葛城研二だろうが誰だろうが――綺麗に片づけろ」
