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すべてを終えた瞬間、私は力を使い果たしたみたいにハンドルへ額を押しつけ、肩を震わせて荒く息を吐いた。
番号を消すだけなら1秒。それなのに、六条修介が私に刻みつけた恐怖と痕跡を拭い去るには――まるで一生分の勇気が要る気がした。
無理やり呼吸を整え、目の前の行き詰まりをもう一度組み立て直す。
六条修介の人間が私を助けたのは、善意なんかじゃない。警告だ。静かに、しかし確実に首輪を締めるための。
彼は網みたいに、じわじわと狭めてくる。私を完全に自分の世界へ閉じ込めるつもりだ。
理由は一つ。ヴィクター・ファミリーの資金洗浄事件。
この案件こそ、私が盤面をひっくり返す唯一の糸口であり、残された唯一の生存ルート。
逃げられないなら、正面からぶつかるしかない。
主導権を奪い返す。
私はエンジンをかけ直し、そのまま法律事務所へ戻った。
それから数日、私は案件資料に自分を沈めた。
ヴィクター・ファミリーのマネーロンダリング網は、吐き気がするほど複雑だ。資金は何十ものペーパーカンパニーとオフショア口座を渡り歩き、最終的に――「ナイチンゲール」という名の高級プライベートクラブへ収束している。
マンハッタンの上流社会で、極端な秘匿性と贅沢なサービスで知られる場所。会員は富と権のどちらか、あるいは両方を持つ連中ばかり。取引の温床であり、金を洗うにはうってつけの土壌。
けれど、調査はまるで進まなかった。
クラブ「ナイチンゲール」に関する公開情報は、不自然なほど真っ白。私が雇った企業調査員も、毎回空振りだった。門前払いか、拾えたとしても無意味な断片だけ。
――まるで、見えない手が「痕跡」そのものを消しているみたいに。
常套手段じゃ歯が立たない。
この鉄板をこじ開けるなら――私が行くしかない。
金曜の夜。
私は堅いスーツを脱ぎ捨て、切れ味のある黒のシルクのロングドレスを選んだ。シンプルなのに、無駄がないぶん色気が立つ。身体の線を綺麗に拾い、足首だけが白く覗く。
メイクもいつもより濃いめに。赤いリップが炎みたいに唇を染め、疲れと蒼白さを塗り潰していく。
鏡の中の女は、目だけが鋭い。近寄るなと言わんばかりの冷たい艶をまとっていた。
クラブ「ナイチンゲール」はマンハッタンでも一等地にあるのに、入口は驚くほど目立たない。分厚い黒檀の扉が一枚、その脇に屈強な警備が二人。
深く息を吸い、ヒールを鳴らして前へ出る。
弁護士の名刺を差し出した。
警備は名刺を一瞥し、目に薄い探りを走らせる。
「松崎莉緒弁護士……ですね。申し訳ありません。当クラブは会員予約制です。ご予約がない方はお通しできません」
「遊びに来たんじゃない」
私は視線を外さず、冷静に、押しの強さだけを乗せた。
「ヴィクター・ファミリーの件で来た。責任者に会わせて」
あえてその名を出す。扉を叩くための鍵であり、反応を見るための餌。
警備の表情が一瞬だけ硬くなる。けれど、態度は崩れない。
「申し訳ありません、松崎さん。こちらには何の連絡も入っておりません」
押し問答になりかけた、そのとき。
背後から、甘ったるいのに棘だらけの声が飛んできた。
「まあ。莉緒さんじゃない。葛城社長に捨てられたからって、こんなとこで次の獲物探し?」
振り返らなくても分かる。村上朱里。
今夜の彼女はピンクの胸元が大きく開いたドレスに、脂ぎった金持ちのボンボンを腕にぶら下げている。目元は愉快そうに歪み、私の足元を眺めていた。
「村上さんって、暇なのね。私の私生活まで心配してくれるなんて」
私は冷たく返し、余計な視線すらくれてやらない。
朱里は一瞬言葉に詰まり、すぐに勝ち誇ったように顎を上げた。
金箔の会員カードをひらつかせ、警備へ見せつける。
「私、会員よ。今夜は予約してるの」
警備は即座に表情を改め、恭しく扉を開けた。
朱里は中へ入る直前、わざと立ち止まって振り返る。
扉の外に取り残された私を見下ろし、嘲りを隠しもしない。
「莉緒さん、無駄よ。『ナイチンゲール』みたいな場所、誰でも入れるわけじゃないし。ここの責任者なんて、会いたいからって会える人じゃない」
間を置き、唇を尖らせる。
「葛城社長の心ひとつ繋ぎ止められなかったくせに、ここで玉の輿? 笑える」
私は相手にしない。
分厚い扉だけを見つめ、静かに、しかし確実に削られていく忍耐を噛み締めた。苛立ちと怒りが、腹の底でねじれる。
そのとき――扉の内側から、黒いスーツの男が出てきた。責任者然とした身のこなし。彼は朱里を視界に入れないまま、まっすぐ私の前に立つ。
丁寧だが、距離は崩さない。
「松崎莉緒弁護士さん……でお間違いありませんね。オーナーがお会いしたいと」
朱里の笑みが、凍りついた。
「オーナーが?」
私は眉を上げ、胸の内で警戒の針を立てる。
「はい。こちらへどうぞ」
私は青くなったり白くなったりしている朱里を横目に、口元だけで薄く笑った。
責任者の後ろについて、黒檀の扉をくぐる。
朱里と男連れはエレベーターホールで警備に止められた。
私はそのまま、頂上階へ直通する専用エレベーターへ案内される。絶対的な権力の匂いがする、閉ざされた箱。
鏡みたいに磨かれた壁が、私の冷静な顔を映す。
けれどクラッチバッグを握る指先は、力が入りすぎて白くなっていた。
「ナイチンゲール」のオーナーが誰かは知らない。
だが私の身元を把握し、名指しで呼ぶ相手が、ヴィクター・ファミリーと無関係なはずがない。
チン、と乾いた音。
エレベーターが最上階で止まり、扉がゆっくり滑る。
現れたのは、広すぎる空中スイート。
巨大な窓の向こうに、マンハッタンの宝石みたいな夜景が広がっている。
そして空気には――私があの車内で嗅いだのと同じ、シガーとモミの木が混ざり合った冷たい匂い。
心臓が、どすんと沈んだ。
部屋の中央、ソファに男が背を向けている。
深い色のシルクのガウン。細身なのに隙のない体躯。手元でウイスキーグラスを揺らし、氷がカラン、と澄んだ音を立てた。
足音に気づいたのか、男はゆっくり振り返る。
忘れようとしても、夢の中で何度も蘇る顔。
神みたいに整っていて、悪魔みたいに危険。
六条修介はソファへもたれ、脚を組んだまま私を見た。頭の先から足元まで――隠しもしない品定めと所有の眼差し。
氷のような青い瞳がシャンデリアの光を吸い込み、底の見えない寒い潭みたいに、魂ごと引きずり込もうとする。
「松崎弁護士」
薄い唇が動く。低く、甘く、どこか愉しげに。
「また会ったな」
