第1章
怜奈視点
「てめえ、もっと気をつけて運びやがれ!」
現場監督の怒号が舞台裏に響いた。私は奥歯を噛み締め、手にした音響機材を落とさないよう必死に堪える。
「すみません、すみません……」
私は何度も頭を下げ、腰を折り曲げて搬入作業を続けた。
時計はすでに夜の十一時を回っている。腕は感覚がなくなるほど痺れているが、手を止めるわけにはいかない――金が必要なのだ。
琉生の来月のリハビリ代に三万円、怜央の心臓の薬も切れかけているし、家賃だって……。
「見ろよあの女、いつも一番キツイ仕事ばっかり選んでらあ」
「旦那が事故で廃人になったらしいぜ。一人で家族養ってるんだとよ、必死になるわけだ」
嘲笑が耳に届く。目頭が熱くなり、私はさらに作業のピッチを上げた。
そう、必死にならなきゃいけない。
三年前のあの事故以来、琉生は言葉を失った。あんなにプライドの高かった人が、今は再起不能のまま抜け殻のようになってしまったのだ。
私が支えなければ、誰がこの家を守るというのか。
ライブが始まった。
舞台裏がようやく静まり返る。機材の山陰に隠れ、家から持ってきた小さなおにぎりを取り出すと、今日初めての食事を貪るように詰め込んだ。
「今夜はスペシャルゲストがいるらしいぞ!」スタッフたちが興奮気味に話している。「俺たちも知らされてないんだ!」
「有紀さんの特別な親友だってよ、超大物らしいぜ」
有紀……その名に胸が締め付けられる。
琉生の元カノにして、今をときめくトップシンガー。五年前に琉生は寂しげな目でこう言った。「彼女は夢を追ったんだ。応援するよ」。そうして彼は、どこにでもいる平凡な私と結婚した。
ステージで燦然と輝く有紀を見つめ、ふさぎ込んでいる琉生を思うと、胸の奥が酸っぱくなる。
私さえいなければ、彼もあんなふうに輝けていたはずなのに……。
罪悪感という名の毒蛇が、じわりと心臓に巻き付く。
深く息を吸い込む。あと二つ、仕事を掛け持ちしようと心に決める。もうすぐ彼の誕生日だ。
「今夜は、特別なゲストをお呼びしています」
不意に響いた有紀の声が、一瞬の間を置いて艶めいたものに変わる。
「私の人生において、とても大切な人。今夜は二人で……ある愛の歌を」
ファンの黄色い悲鳴が上がる。
仮面をつけた人影がステージに現れた。スラリと伸びた背筋、滲み出る気品。顔を隠していても、その非凡さは隠しきれていない。
イントロが流れ、まずは有紀が甘く切ない美声で歌い出す。
そして――
「振り返ると いつも君が笑ってくれた……」
ゲストが口を開いた。
磁力を帯びたような、低く、完璧な――あの声。
手からおにぎりが滑り落ちた。
まさか。嘘だ。ありえない。
私はステージを凝視した。心臓が破裂しそうなほど早鐘を打つ。あの声は、琉生と瓜二つだった。いや、似ているなんてもんじゃない――あの人の声そのものだ。三年も経っているけれど、たとえ彼が言葉を失っていても、あの声を忘れるはずがない。
だが、琉生は失語症のはずだ! 三年間、一言だって発していないのに!
狂ったように首を振る。きっと疲れすぎて幻聴を聞いているのだ。けれど……。
ステージ上のゲストがマイクを握り直そうと腕を上げた瞬間、スポットライトが袖口から覗いた白い傷跡を照らし出した。
あの傷。
三年前の事故で残った、右肘の外側にある稲妻のような傷跡。
その瞬間、私の世界は音を立てて崩れ去った。
「嘘……」
よろめきながら立ち上がり、背後の機材を倒しそうになる。
「何やってんだ!」現場監督が忌々しげに睨む。
返事もせず、私は足をもつれさせながらステージの方へと走った。頭の中はぐちゃぐちゃで、ただ一つの思考だけが渦巻いている。ありえない、見間違いに決まっている。
曲が終わり、雷鳴のような拍手が沸き起こる。仮面のゲストと有紀は抱擁を交わし、スタッフに囲まれて舞台を後にした。私はなりふり構わず後を追い、柱の陰に隠れながら彼らがVIPルームへ入っていくのを見届けた。
ドアが少しだけ開いている。
震える体を引きずって近づき、ドアの隙間から覗き込む。仮面の男が、その仮面を外した。
琉生だ。
間違いなく、琉生だった。
その顔も、目鼻立ちも、肘の傷も――すべてが彼だ。
両手を強く握りしめ、爪が掌に食い込む。
「おめでとう、琉生」有紀の甘ったるい笑い声が聞こえた。「あなたの『口無しゲーム』も、もうすぐ終わりね」
口無し……ゲーム?
「ああ、あと一ヶ月だ」琉生は軽薄な笑みを浮かべた。「正直な話、三年間もしゃべらないなんて、息が詰まって死ぬかと思ったよ」
しゃべっている。彼が、しゃべっている!
「奥さんと子供と三年も口を利かないなんて、よくやるわね」有紀が感嘆の声を上げる。「あの女、あなたのために死に物狂いで働いてたじゃない。心が痛まなかったの?」
短い沈黙。
「覚えてるか?」琉生の声には呆れたような響きがあった。「三年前に君が帰国して、俺が結婚して子供までいると知った時だ。君は俺が約束を裏切ったと言い放った。『離婚して私だけを愛していると証明するか、それとも……賭けに乗るか』と迫っただろう」
「それで乗ったわけ?」有紀がケラケラと笑う。「三年間声が出せないふりをして、事故の後遺症だと思い込ませて、治療費のために身を粉にして働くあの女を眺める。琉生、あなたって本当に残酷ね」
「有紀……」
「子供はどうなの?」と有紀がからかう。「あの子とも話してないんでしょう? 四歳の子供が、生まれてから一度も父親の声を聞いたことがないなんて」
「賭けが終われば普通に話すさ」琉生の口調はどこまでも淡々としていた。「たかが賭けだろ。別に大したことじゃない」
体の震えが止まらない。
三年。
三年の汗、三年の涙、三年の献身――。
それらすべてが、ただのくだらない賭けだったというのか。
「それにしても」また有紀の声がした。「あの交通事故の演技、迫真だったわね。運転手役はどこで見つけてきたの?」
事故も……嘘……?
脳裏に三年前の光景がフラッシュバックする――暴走車が私に向かって突っ込んできて、琉生が私を突き飛ばし、代わりにはねられたあの瞬間。目が覚めた彼が言葉を失っていた時のこと。医師が「脳の損傷によるもので、一生話せないかもしれない」と告げた時のこと。
「そうでもしなきゃ、あいつも信じないだろ?」琉生が笑った。「だが、あの演出のおかげで、この三年間あいつはずっと罪悪感に苛まれ、俺の言いなりだったよ」
ドォン――。
激しい目眩に襲われた。
事故は嘘。失語症も嘘。
三年間、私が耐え忍んできた罪悪感も、彼の冷淡な態度も――すべては演技だったのだ。
私は……私はなんて馬鹿なんだろう。一つの嘘のために、三年もの人生を捧げてしまったなんて。
どうやってそこを離れたのか、記憶が定かではない。
午前二時。泥のように重い体を引きずって家のドアを開けた瞬間、ガラスのコップが顔めがけて飛んできた。
