第2章
怜奈視点
反射的に頭を逸らすと、ガラスのコップが頬を掠めて背後へ飛び、派手な音を立てて砕け散った。
「ママ!」
リビングから、怜央の悲痛な泣き叫ぶ声が響いてくる。
私は慌てて部屋に駆け込んだ。そこにはソファの横に立ち、苛立った様子で息子の背中を叩いている琉生の姿があった。怜央は私を見つけるなり、すぐに琉生の手を振りほどき、もつれる足取りで駆け寄ってくる。
「ママ……」
小さな身体を震わせながら、私の胸に飛び込んでくる息子。私はその身体を強く抱きしめ、琉生を見上げた。
彼は咎めるような冷たい目で私を一瞥すると、スマホを取り出し、素早い指先で文字を打ち込んだ。
「こいつがずっとお前を探してうるさかった。なんでこんなに帰りが遅い?」
私は深く息を吸い込み、腹の底から湧き上がる怒りを必死に押し殺す。
「ごめんなさい、今日はバイトを一つ増やしたの」
琉生は不機嫌そうに小さく頷くと、踵を返して寝室へと消えていった。
その後ろ姿を睨みつけながら、私は奥歯を噛み締める。今すぐ駆け寄って問い詰めたい衝動を、理性で無理やり抑え込む。
駄目だ、今じゃない。まずは今後のことを冷静に考えなければ。
腕の中で、怜央がまだしゃくり上げている。覗き込むと、その顔は真っ青だった。
「怜央、どうしてまだ寝てないの?」
愛おしさを込めて額を撫でる。
「お腹、空いた」
怜央は目を赤くしたまま、小さな声でそう言った。
私は一瞬、呆然とする。
「晩ご飯、食べてないの?」
怜央は力なく首を振った。
「パパ、今日ずっと家にいなかったの。僕、ご飯作ってくれるのを待ってたんだけど……帰ってこなくて。冷蔵庫にプリンが半分だけあったから、少し食べたけど……でも、まだお腹空いてて」
心臓をナイフで抉られたような痛みが走る。
午後四時から今まで、十時間も。先天性の心臓病を抱える四歳の子供が、たった半分のプリンだけで耐えていたなんて。それなのに父親であるあの男は、どこで時間を浪費していたというのか。
「ママ、すぐに何か作るからね」
溢れそうになる涙を堪え、私は怜央を抱きかかえてキッチンへと向かった。
シンクには洗われていない食器が山積みになっている。溜息をつきながら空っぽの冷蔵庫を開けると、最後の一箱となっていた餃子を見つけた。
よかった、賞味期限は切れていない。
十五分後、湯気の立つト味噌汁と焼き餃子がテーブルに並んだ。
怜央の目が輝く。
「ママ、いい匂い!」
私は器を彼の前へと押しやった。怜央は数口頬張ったあと、ふと顔を上げて遠慮がちに尋ねてきた。
「ママ、食べないの?」
「ママはお腹空いてないから。怜央がいっぱい食べて」
本当は空腹だ。朝から今まで、おにぎりを半分食べたきりなのだから。でも、ボウルの中の餃子は二人分には足りない。まずは怜央を満腹にさせなくては。
半分ほど食べたところで、怜央は突然手を止め、器を持ったまま椅子から降りた。
「怜央?」
彼は答えず、忍び足で慎重に寝室へと向かっていく。
嫌な予感に胸が沈む。
怜央は寝室のドアの前に立ち、怯えたようにノックをした。
「パパ」
返事はない。
もう一度、小さな手で叩く。
「パパ、一緒に食べよう?」
ドアが開いた。琉生が眉をひそめ、冷ややかな視線で息子を見下ろしている。
怜央は器を掲げ、期待のこもった瞳で彼を見上げた。
「パパ、これ、ママが作ったの。美味しいよ。一口食べる?」
琉生は器の中の焼き餃子を一瞥すると、顔に明らかな嫌悪の色を浮かべた。そしてスマホを取り出し、文字を打つ。
無機質な合成音声が響いた。
「母親のところへ行け。俺を煩わせるな」
怜央の笑顔が凍りつく。
「パパ……」
震える声が漏れる。
「いつになったらお話できるの? 僕、パパの声で名前を呼んでほしいよ」
琉生は鬱陶しそうに手を振ると、無慈悲にドアを叩きつけた。
怜央はその場に立ち尽くし、頬を涙が伝う。彼はくるりと背を向けると、キッチンへ走り戻り、私の胸に飛び込んできた。
「ママ、パパは僕のこと嫌いなの?」
泣きじゃくりながら彼は問う。
「どうして一度もお話してくれないの?」
私はしゃがみ込み、彼をきつく抱きしめた。半開きになったドアの隙間から、何事もなかったかのようにスマホをいじる琉生の姿が見える。画面の明かりに照らされたその横顔には、一片の良心の呵責も見当たらない。
怜央を抱きしめる腕に力がこもる。心臓を鷲掴みにされたような苦しさと、喉の奥から湧き上がる苦い感情。
これが、私が命を削ってまで守ろうとした家庭なのか? これが、私が三年間、一言の文句も言わずに支えてきた夫の姿なのか?
私は瞳を閉じ、頬を伝う涙をそのままにした。
翌朝、怜央を保育園に送った足で、私は不動産屋へと直行した。
一晩中、離婚のことを考えていた。怜央を連れて逃げる。徹底的に、あの男から離れるために。
このアパートは、琉生の名義に残された唯一の財産だ――少なくとも、私はそう信じ込まされていた。三年前の事故の後、琉生は会社が倒産し、全ての資産が清算され、残ったのはこの小さなアパートだけだと言った。
これを売れば、少なくとも数百万円にはなるはずだ。私と怜央が新生活を始めるには十分な資金になる。
「すみません、家を売りたいんです」
私は権利証を窓口の女性に差し出した。
彼女は書類を受け取り、パソコンにいくつかの情報を打ち込むと、ふと手を止めた。
「神崎さん、売却をご希望なのは中央通りのこのマンションで間違いありませんか?」
「ええ、そうです」
「えっと……」彼女は画面を見つめ、言い淀んだ。「少々お待ちください。情報の確認が必要でして」
彼女は再びキーボードを叩き、眉を少しひそめた。
「どうかなさいましたか?」
胸の奥で、嫌な予感が警鐘を鳴らす。
「その……システム上、ご主人様の名義で複数の不動産が表示されておりまして。今回売却されるのがどの物件なのか、確認させていただきたかったんです」
彼女は気まずそうに笑った。
「たまに、お客様が勘違いされているケースもございますので」
「複数?」
私は愣然とした。
「どういうことですか?」
彼女は画面をちらりと見て、それから私を見た。何かに気づいたような表情だ。
「ご存知ありませんでしたか?」彼女は居住まいを正した。「神崎琉生様の名義で、合計十八件の不動産が登録されています」
頭の中が真っ白になった。
「十八件?」
彼女はモニターをこちらに向けた。
「ご覧ください。こちらが中央通りのマンション、評価額は二百五十万ほどです。それから青葉台に戸建ての別荘、都心にもタワーマンションが……」
彼女が何かを説明し続けているが、もう耳に入ってこない。
十八件の不動産。
会社は倒産したと言っていた。全ての資産は清算されたと、彼はそう言ったのに。
私たちには、この古びた狭いアパートしか残されていないと信じていたのに。
乾いた笑いが込み上げ、同時に涙が溢れ出した。スタッフの女性が、心配と同情の入り混じった目で見つめてくる。
つまりこの三年間、彼は貧困を装いながら、実際には豪邸を渡り歩いていたのだ。私に四つのバイトを掛け持ちさせて家計を支えさせながら、自分は億万長者のような生活を謳歌していたのだ。
去年の冬の記憶が、脳裏をよぎる。
暖房が壊れ、修理費に五万円が必要だったときのことだ。私は琉生に電話し、リハビリ費用から少し回せないかと恐る恐る頼んだ。
彼の返信は、たった一言だった。「無理」
あの冬、私と怜央は薄っぺらい布団一枚に包まって震えていた。怜央の唇が紫色になり、私は自分のコートまで彼に着せ、一晩中抱きしめて温めた。
その間、琉生は「病院で治療がある」と言って毎晩夜遅くまで帰ってこなかった。時には入院して様子を見ると言って、外泊さえした。
そうか、彼はあの豪華なマンションに行っていたのか。床暖房の効いた、あの暖かい部屋に。
私と彼の息子が、冷え切ったアパートで凍えている間に。
「神崎さん?」
スタッフの女性が優しく声をかけてくる。
「お手続き、続けられますか?」
「いえ……」私は機械のように答えた。「ありがとうございます。少し、考えさせてください」
不動産屋を出ると、日差しの眩しさに目が眩んだ。
通りに立ち尽くす私の頭の中は、混乱でぐちゃぐちゃだった。
その時、スマホが鳴った。保育園からだ。
「神崎さん、すぐ来てください! 怜央くんが突然倒れて!」
心臓が、止まりそうになった。
「えっ!?」
