第3章

怜奈視点

「お嬢ちゃん、シャンパンもう一杯」

 脂ぎった中年男が私に手招きし、そのいやらしい視線が私の露出の多い身体をなめ回す。

 私はトレイを手に歩み寄る。顔は伏せたままだ。黒いレースのミニスカートは太腿を隠すのがやっとで、胸元の大きく開いたトップスは、身を隠す場所などほとんどないに等しい。

「ありがとうございます」

 私は機械的に告げる。

 男の手が伸びてきて、「うっかり」といった風を装い私の腕を撫でる。身体が強張った。けれど吐き気をこらえ、後ずさるのが精一杯だった。

 一週間前、医師から怜央の心臓病が悪化したと告げられた。至急、手術が必要だと。費用は三百万円。そんな大金、どこにあるというの?

 絶望の淵にいた私の目に留まったのが、この仕事――クルージングパーティーのコンパニオンだった。

 一晩中、富豪たちのいやらしい視線とセクハラまがいの言葉に耐え続けてきた。爆発しそうになるたび、怜央の蒼白な寝顔が脳裏に浮かぶ。

 あの子のためなら、なんだって耐えられる。

「皆様、デッキにて花火の打ち上げが始まります!」司会者が声を張り上げる。

 ゲストたちがデッキへと涌いていく。私はその列の最後尾につき、少しでも休憩しようと考えていた。

 その時だ。聞き覚えのある笑い声が耳に飛び込んできたのは。

 顔を上げ、全身が凍りついた。

 デッキの柵にもたれ、琉生と有紀が親しげに寄り添っている。月明かりの下、白いドレスを纏った有紀は眩いばかりに美しい。その隣で、彼女の肩に手を回す琉生は、とても優しく微笑んでいた――この三年間、私には一度も見せたことのない笑顔で。

 対して私は――安っぽいメイド服を着て、まるでピエロだ。

 踵を返そうとしたが、琉生と目が合ってしまった。

 彼は驚愕に見開いた目で私を凝視すると、早足で近づいてきた。慌ててスマホを取り出し、文字を打ち込む。

「どうしてここにいる!?」

「バイトよ。お金を稼ぐため」私は淡々と答える。

 琉生の顔が赤く染まる。凄まじい速さで指が動く。

「そんな格好で、恥ずかしくないのか!」

「恥ずかしい?」私は鼻で笑った。「家族を養うために働く女の、どこが恥ずかしいの」

「琉生、どうしたの?」

 そこへ有紀が歩み寄ってくる。私の姿を認めると、その瞳に嘲笑の色が浮かんだ。

「あら、怜奈さん? こんなお仕事されてたの?」

 周囲からさざ波のような囁き声が聞こえる。無数の視線が私に突き刺さる。好奇、同情、あるいは軽蔑。

 けれど、今の私にはどうでもよかった。

「怜央の手術費を作るためです」私は冷ややかに言った。

 琉生が硬直する。素早く文字を打つ。

「怜央がどうした?」

「心臓病が悪化したの。緊急手術が必要よ」私は彼を見据えた。「三百万円かかるわ」

 琉生の顔色が瞬時に青ざめた。震える指が画面を叩く。

「どうして教えてくれなかったんだ」

 私は笑った。笑いすぎて涙が出そうだった。

「教える?」私は彼を見た。「この一週間、あなたはどこにいたのよ」

 琉生が固まる。

「海外で治療するって言ってたわよね」私は目尻の涙を拭う。「電話もした。メールも送った。全部無視じゃない。怜央が危篤になったあの日、病院の廊下であなたに三十二回も電話したのよ。三十二回も」

 琉生の手が震えている。

「ごめん、スマホが壊れてて……」

「スマホが壊れてた?」彼と有紀を交互に見やり、嘲るように笑う。「奇遇なことね」

 彼女のツアーに同行できるのに、息子の母親とは連絡がつかないなんて。

 琉生の表情がめまぐるしく変わる。

「佐藤様!」突然誰かが歩み寄り、興奮気味に有紀に声をかけた。「おめでとうございます! あんな高価なプレゼントを受け取るなんて! あの特注のクルーザー、安く見積もっても数億円はするでしょう? 神崎様も粋なことをなさる!」

 その瞬間、空気が凍りついた。

 数億円のクルーザー。私の息子は、生きるためにたった三百万が必要なのに。

 私は琉生と有紀を睨みつけた。

「違うの!」有紀が慌てる。「あれは自分で買ったのよ! 琉生には選んでもらっただけで、プレゼントじゃないわ!」

「ああ、ただの手伝いだ」琉生も必死に文字を打つ。

 彼らの狼狽ぶりを見ていると、急に疲れが押し寄せてきた。どっと、重たい疲れが。

「もう行くわ」背を向ける。

 琉生が私の腕を掴んだ。険しい顔でスマホを突きつけてくる。

「こんな仕事はやめろ」

 捕まれた腕を見下ろし、私はふと笑みをこぼした。

「これをやめて、どうしろっていうの?」顔を上げ、彼を見る。「息子の医療費はどうするつもり?」

 琉生は口を開閉させたが、声は出ない。金なら出せると言いたいのだろうが、言えるはずがない。言えば、三年の偽装が水の泡になる。

 その時、有紀が口を開いた。

「私が出すわ!」

 全員の視線が彼女に集まる。

「私が出すわ、このお金」有紀は言った。「私と琉生は友達だもの。怜央くんのことだって、小さい頃から見てきたし……見殺しになんてできないわ」

 切実な口調で、目元まで赤くしてみせる。周囲からは感嘆の声が漏れた。

 彼女の演技を見て、口元が皮肉に歪む。

 カモになりたいなら、望み通りにしてあげる。

「一千万」

 有紀の笑顔が凍りついた。

「え?」

「手術費三百万、その後の治療費、リハビリ代、それにこの三年間の借金……」一言一句、噛み含めるように告げる。「一千万円。一円だってまけないわ」

「怜奈さん!」有紀の顔色が変わる。「そんなの火事場泥棒よ!」

「火事場泥棒?」私は鼻で笑う。「さっきの数億円のクルーザーには目もくれなかったのに、たった一千万円で火事場泥棒扱い? それとも、さっきの佐藤様の太っ腹ぶりは、人前でいい顔するためだけの見栄だったのかしら」

 周囲の視線が一斉に有紀へ注がれる。審判のような、疑いの眼差し。

 彼女の顔は真っ赤に染まり、引くに引けない状況だ。

「わかったわよ、払えばいいんでしょ」彼女は歯噛みしながらスマホを取り出し、アプリを操作すると、「ほら、振り込んだわよ」と画面を突きつけた。

 画面を見ようとしたその瞬間、ふたつの手が視界に入った――

 彼女の手は白くしなやかで、爪には精巧なネイルアートが施され、まるで芸術品のようだ。

 対して私の手は、荒れてひび割れ、過酷な労働で節が太くなり、爪の間には何度洗っても落ちない汚れが染み付いている。

 これが私と彼女の距離。埋まらない、絶望的な距離。

「佐藤様のお情けに感謝します」

 そう言い捨て、私は背を向けた。

 更衣室で私服に着替えた直後、ドアが乱暴に開かれた。

 琉生が踏み込んできて、背後でドアを叩きつけるように閉める。

 怒りに燃える目で私を睨み、恐ろしい速さで文字を打った。

「正気か? あんな格好で出てくるなんて! 知り合いに見られたらどうするつもりだ」

「知り合い?」私は冷ややかに笑う。「自分の顔に泥を塗られるのが怖かっただけでしょ」

 琉生が言葉を失う。

「この一週間、私がどう過ごしていたか知ってる? 怜央が危篤になった日、私は病院で医者に土下座して子供を助けてくれって頼み込んだの。医者は言ったわ、金がなければ死ぬのを待つだけだって」声が震える。「その時、あなたは? どこにいたのよ」

「知らなかったんだ……」琉生の指が震える。

「知ってるわけないわよね。あなたは失語症の『治療』でお忙しかったんですもの。私たちの生死なんてかまっている暇はないわよね」

「怜奈……」

「もういい」深く息を吸い込み、鞄から書類を取り出した。「これに署名して」

 琉生が怪訝な顔をする。

「なんだこれは?」

「怜央の医療同意書よ。父親の署名が必要なの」

 琉生は書類を受け取り、ページをめくり始めた。

 私の心臓が早鐘を打つ。

 これはただの医療同意書じゃない。その一番下に、離婚届が紛れ込ませてある。

 彼がページをめくるのを、手汗を握りしめて見守る。

 彼は中身をほとんど読まず、ペンを走らせる。

 一枚、二枚、三枚……

 ついに、最後のページに辿り着いた。

 ペン先が紙に落ちる。

 突然、彼の手が止まった。

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