第2章

廊下の静寂を、甲高い悲鳴が切り裂いた。

綾瀬亜美は足をもつれさせて派手に転倒し、手に持っていたティーカップが床で砕け散る。飛び散ったガラスの破片が彼女の掌を切り裂き、鮮血がじわりと床に広がった。

会議室のドアが、乱暴に押し開けられる。

ガラス越しにその惨状を目撃した城崎漣は、手にしていた書類を放り出すと大股で駆け寄り、亜美の体を抱き起こした。

「誰がやった」

その声は、刃物のように鋭く冷ややかだった。

親切心から亜美に手を貸そうとしていただけの同僚は、恐怖に顔を強張らせ、よろよろと二歩あとじさりする。

その場にいる全員の視線が、私に突き刺さった。

私は鼻で笑った。

「私がやったの。彼女の自業自得よ」

亜美は涙ながらに私を睨みつける。その声は、いかにも哀れを誘うような泣き声混じりだった。

「そう……私が悪いのっ! いけない人を好きになっちゃったから……愛人だの泥棒猫だのって罵られても、仕方ないんだわ」

彼女は顔を上げ、頬に涙を伝わせる。

「でもね、漣くん。漣くんさえ私を愛してくれるなら、あたし一生おそばにいる。誰にも邪魔なんてさせないもん」

その泣き顔はあまりにもあざとく可愛らしく、そんな支離滅裂な台詞さえ、健気で一途な愛の言葉に聞こえてくる。思わず拍手喝采を送りたくなるほどの名演技だった。

漣はその様子に絆されたのか、口元を緩めた。指先で彼女の涙を拭う仕草は、春風のように優しい。

「泣くな。俺が辛くなる」

ああ、やはり。彼女に対してだけは、特別なのか。

私は瞼を下ろし、この茶番劇から視線を切った。

「五十万、ちょうだい」

私は淡々と言った。

私たちは夫婦でありながら、互いの連絡先さえ知らない関係だ。金の無心以外で、私から彼に接触することはない。

結婚する前からの取り決めだ。彼は私の身体を求め、私は彼の金を求める。

漣はずっと私を憎んでいる。金にしか目のない、愛のかけらもない拝金女だと。

それでも以前は、私が口を開きさえすれば、彼は黙って金を寄越した。それも、私が求めた額よりも多く。

けれど今回だけは違った。彼は私を見つめ、凍りつくような笑みを浮かべた。

「金が欲しいのか。いいだろう」

一拍置いて、彼は噛み含めるように続けた。

「だがな、浅見萌。その無駄に高いプライドを捨てて、亜美に頭を下げろ。『申し訳ありませんでした』とな」

その場の空気が、凍りついた。

漣は金で私の自尊心を買い叩き、綾瀬亜美への謝罪をあつらえようとしているのだ。

他の女のために、金を使って私を辱める。こんなことは初めてだった。

私は、ふっと笑った。

その瞬間、体の奥底から激痛が潮のように押し寄せてきた。私は奥歯を噛み締め、踵を返してその場を後にする。

金など、もう要らない。

ビルを出た瞬間、ふとある疑問が頭をよぎった——

城崎漣。もしもあのお金が、私の命を少しだけ永らえさせるためのものだったと知ったら。

貴方は、どんな顔をするのだろう?

——

帰宅した途端、全身から冷や汗が吹き出すほどの激痛に襲われた。

睡眠薬を数錠、乱暴に飲み下す。眠ってしまえば痛みは消える、そう自分に言い聞かせて。

薄れゆく意識の中で、私は二十歳の頃の夢を見た。

あの頃の城崎漣は貧しかったけれど、私のことを誰よりも深く愛してくれていた。

誕生日のことだ。通りがかりのデパートのショーウィンドウ越しに、一組のカップルを見かけた。女の子の首元には真っ白なカシミヤのマフラーが巻かれていて、それはとても柔らかく、高価そうに見えた。

覚えている。その日は凍えるように寒くて、私たちは白い息を吐きながら歩いていた。

私は羨望の眼差しでその子を見つめた後、何でもないことのように漣に笑いかけた。

「ねえ漣、今日はそんなに寒くないね。そう思わない?」

漣は唇を噛み締めると、不意に私を抱き寄せた。

密かに赤く潤んだその目元を、私に見せたくなかったのだろう。

数日後、彼はそのマフラーを抱えて、私の寮の下に現れた。

カシミヤのマフラーは一本八万円もする。

彼が一日中必死にアルバイトをして稼げる額は、せいぜい二万円だというのに。

彼の手指にできたひどいあかぎれを見て、私は情けなくも声を上げて泣いてしまった。

「城崎漣、馬鹿じゃないの! 私のご機嫌取りなんかのために、自分を犠牲にするなんて! ちゃんと勉強して、自分の夢を叶えなきゃ駄目じゃない!」

私なんかに、そんな高級なマフラーは釣り合わないのに……。

漣は即座に否定した。

「萌は、この世にあるすべての素晴らしいものを手にする資格があるんだ。本当だよ」

結局、私は泣きじゃくりながらそのマフラーを巻いてもらった。

あのマフラーはいつの間にか失くしてしまったけれど。でも、分かっている。あの日以来、あれ以上に温かい温もりを、私は二度と感じていないのだと。

随分と長いこと、眠っていた気がする。

微睡みの中で、携帯電話の着信音が聞こえた。

通話ボタンを押すと、向こうから漣の声がした。

「萌」

私はとびきり甘い声で、彼に呼びかけた。

「ねえ漣。大雪が降ってるよ。すごく寒い」

返事を待つこともなく、私は寝返りを打ち、再び深い眠りへと落ちていった。

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