第3章

空腹で目を覚ますと、リビングの明かりがついていた。

城崎漣が、帰ってきていた。

綾瀬亜美に港区の豪邸を買い与えてからというもの、彼は毎晩のようにあちらに入り浸っている。

私は壁伝いに体を起こしたが、視界がぐらりと揺れた。

リビングには紫煙が立ち込めている。掃き出し窓の前に寄りかかる漣の長身は、闇に沈んでいた。彼は煙草をくわえたまま、その黒い瞳でじっと私を見据えている。

私は視線を落とし、彼を避けてキッチンへ向かおうとした。

不意に、手首を強く掴まれる。

「なんでこんなに痩せた」

彼の声は低く、私の理解できない感情が混じっていた。

私は力任せにその手を振り払う。

「気でも狂ったの?」

彼の表情が、瞬時に凍りついた。

私は足早にキッチンへ向かったが、ダイニングテーブルの前で足を止めた。

テーブルの上には、マフラーが置かれている。新品の、見るからに高価なマフラーだ。

私は言葉を失った。

じゃあ、さっきの電話は夢じゃなかったの? 私は本当に、彼に『寒い』と漏らしてしまったのか。

……最悪だ。

「寒いんじゃなかったのか」

漣が背後に忍び寄る。

私は振り返り、彼を見上げた。

この男は数百万は下らないオーダーメイドのスーツを纏い、手首の時計は照明の下で冷ややかな光を放っている。そこに立つ彼は、まるで高みから見下ろす傲慢な神の像のようだ。

だが、そんな施しはもう、とっくに不要だった。

私は歩み寄ると、マフラーを無造作にゴミ箱へ放り込んだ。

「……俺をコケにしてんのか」

漣の声が、完全に冷え切った。

彼は大股で近づき、ドン、と私を壁に押し付ける。

「そうよ、からかったの。それが何?」

私は顔を上げ、冷笑を浮かべて彼を見た。

「私が寒いと言えば、あなたはマフラーを買いに走る。城崎漣、あなたってどうして昔と変わらず、そんなに安っぽいの?」

彼の瞳孔が、すっと細められる。

次の瞬間、私は寝室へ引きずり込まれ、ベッドに叩きつけられた。

「城崎漣、この人でなし!」

私は必死に抵抗した。

「触らないで! 汚らわしい!」

彼は覆いかかり、私の首筋に噛み付いた。食い千切らんばかりの激しさだ。

「浅見萌、俺に折れればいいだろ。そうすれば済む話なんだよ」

私は歯を食いしばり、沈黙を貫く。

「わかってるのか」

唐突に、彼の声が枯れた。

「俺がお前に機嫌をとってほしくて……お前が折れるのを、俺が何年待ったと思ってる」

私は息を呑んだ。

だが、私が反応するよりも早く、彼のスマホが鳴り響いた。

綾瀬亜美からだ。

漣は画面を一瞥したが、出ようとはしない。

着信音は執拗に鳴り続けた。

彼がついに通話ボタンを押すと、向こうから泣き混じりの亜美の声が漏れ聞こえてきた。

『漣くん、バーで変な人に絡まれてるの。迎えに来てくれない? すごく怖いの……』

漣は私を見下ろし、一言一句を噛み含めるように言った。

「浅見萌、俺に頼め」

「行かないでくれと頼め。そうすれば、俺は行かない」

私は彼を見つめ返した。

この男は、どこまでも独りよがりだ。

でも、彼は忘れている。十年前、私もそうやって彼に懇願したことを。

あの時、私は泣きながら言ったのだ。『漣、行かないで。私を一人にしないで……』と。

彼は冷たい目で私を見下ろし、こう言った。

『浅見萌、お前にはその資格がない』

私は深く息を吸い込むと、彼の胸倉を掴んで引き寄せた。

そして、笑みを浮かべて告げた。

「城崎漣。……あなたに、その資格はないわ」

彼の瞳が大きく揺れ、顔に信じられないという色が浮かぶ。

すぐに、彼は自嘲気味に笑った。

「……いいだろう」

彼は身を起こし、電話の向こうへ告げた。

「待ってろ、今すぐ迎えに行く」

彼は二度と私を見ることなく、ドアを叩きつけるようにして出て行った。

部屋は再び、闇に包まれる。

私はベッドに横たわり、天井を見上げた。

城崎漣、ようやくあなたも味わったのね。拒絶されるという痛みを。

……残念だわ。

私にはもう、あなたが後悔する姿を見る時間は残されていないのだから。

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