第2章
携帯の着信音が、私の思考を遮った。
「千絵子、どうなったの? 藤井さんとこの息子さん、いい条件じゃない。大手企業の正社員で、収入も安定してるし……」
私は目を閉じ、数ヶ月前の母との口論を思い出していた。
「安定した仕事に就いてない男なんて信用できないのよ」
母はそう言った。
「あなたももう二十四歳なんだから、結婚のことを考えなさい」
「幸広は毎日深夜まで仕事して、週末もプログラミングを独学で勉強してる。二人で少しずつ頑張ればいいじゃない」
私は当時、そう彼を庇った。
けれど今、私は荒れ狂う波を見つめ、長い沈黙の後、ようやく答えた。
「わかった、お母さん。彼とは別れる」
私の手には、まだ企画書が握りしめられていた。
六ヶ月前、幸広は興奮した様子で、彼が準備している『個人向けAIアシスタントプロジェクト』について語ってくれた。プロジェクトの将来性は非常に高く、彼は多くの調査を重ねたのだと。
プロジェクトには初期投資が必要で、その資金を得るために、幸広はあちこちの付き合いに顔を出していた。
私は、彼が私たちの未来のために努力しているのだと信じていた。
彼が一人で必死になっているのを見るに忍びなく、私は自分の貯金のすべてを差し出した。
合計二千万円。その数字の羅列を睨みつけながら、涙が目に溜まる。
それは私が専門学校を卒業してから、三つのアルバイトを掛け持ちして貯めたお金。それに加え、両親から借りた八十万円。
そのすべてが、一つの嘘に注ぎ込まれたのだ。
二千万円。彼が今夜開けたシャンパン一本の値段にも満たない。
【まだ仕事終わらないの?】
スマートフォンの画面が光り、染宮幸広からのメッセージが表示された。
すぐに、電話がかかってくる。
私はすべての感情を押し殺し、普段と変わらない声色で応じた。「ちょうど今、家に着いたところ。あなたは? 仕事、終わった?」
「もうすぐだよ。君は早く休んで。明日には帰るから。プロジェクトの引き継ぎも上手くいったし、戻ったら美味しいものでも食べに行こう」
私は喉を詰まらせ、長い時間の後、ようやく「うん」と一言だけ絞り出した。
海沿いの大通りを、私はゆっくりと家に向かって歩いた。
彼と知り合った頃、彼は自分は専門学校卒で、システムアーキテクトの資格すら持っていないと言っていた。
当時の私はただ彼を聡明だと感じ、彼がこのままで終わるはずがないと信じていた。
あの頃、私たちはまだ若く、私は彼を励ました。
「IT業界では、アーキテクトの資格があれば、給料は少なくとも倍になるわ」
日本のIT企業においてさえ、資格を持つアーキテクトと普通のプログラマーとでは、年収に百万円近い差がある。
その頃、私は仕事をしながら、深夜まで彼の復習や問題演習に付き合った。
朝、並んで歯を磨く時でさえ、私は一分一秒を惜しんでアーキテクチャパターンの学習アプリを開き、前日の知識の定着を手伝った。
アーキテクト試験の過去問を幸広が一度解けば、私もそれに付き合って一度目を通した。
時間がなかったため、私たちはわずか一ヶ月半で試験に合格した。
その時のお祝いは、ラーメンを食べに行くだけでも、先にクーポンを探すほどだったのに。
なのに今、山田美月を通じて聞き出した情報を捲りながら、私はただただ馬鹿馬鹿しく感じていた。
「染宮幸広。この文字よ」
美月は電話口で言った。
「技術レベル? 聞くところによると、彼はとっくに業界トップクラスのアーキテクトで、染宮グループの基幹システムも彼が設計したんだって。資格試験なんて、そもそも必要なかったのよ」
今ならわかる。染宮グループの天才的な後継者が、専門学校卒の私ごときの助言を必要とするはずがない。
彼はとっくの昔に業界トップのアーキテテクトでありながら、私の前ではただのしがないプログラマーを演じていただけなのだ。
今にして思えば、私はどれほど滑稽だったことだろう。
眩暈がした。このプロジェクトを一日も早く完成させるため、私はほとんど不眠不休で残業し、すべての心血を注いできた。
一週間も夕食を摂らずにいたせいで、低血糖で意識を失ってしまった。
次に目覚めた時、私は病院にいた。
染宮幸広が、すぐそばにいた。
「千絵子? 大丈夫か?」
彼の声には気遣いが滲んでいた。
彼は忘れているのだ。今頃は横浜へ出張中のはずなのに、どうして東京に現れることができるのか。
「幸広、プロジェクト、成功したんだってね。お母さん、すごく喜んでた。もう私たちのこと、反対しないって」
幸広は視線を逸らし、私を見ようとしない。
「うん。それは、よかった」
彼の手元のスマートフォンが絶え間なく震え、「高橋誠」と「父」からの着信を表示するが、彼はそれを素早くミュートにした。
「じゃあ、いつ結婚する?」
幸広は明らかに緊張した。
「もう少し、待ってくれ。もう少しだけ……」
私はベッドの上で身を起こし、まるで全身の力を抜き取られたかのようだった。
「幸広、何を待つの? 私、もう五年も待ったんだよ……」
彼の電話はまだ震えている。幸広は申し訳なさそうに私を一瞥した。「ちょっと待ってて。この電話に出たら」
私は彼が身につけている、仕立ての良いスーツに目をやった。オーダーメイドだ。とてもよく似合っている。
これまでの長い間、私が買ったユニクロを着せていたなんて、彼にはずいぶん窮屈な思いをさせてしまった。
彼が電話に出ている間に、私は渡辺正樹に電話をかけた。
「千絵子、決心してくれたのか? こっちのポストはずっと君のために空けてあるんだ。いつから来られる?」
私の意識は朦朧としていたが、こちらを見る幸広の視線に触れた瞬間、はっと覚醒した。
「二月十四日。ええ、その日で」
その日は、彼の婚約の日だった。
