第1章
アリアの視点
冷えきった石壁に背中を預ける。頭の中では、カエルのあの言葉がぐるぐる回っていた。
――「あいつを、俺の人生から追い出せ」
胸の奥を獣に噛み裂かれているみたいで、息を吸うたびに痛い。
三日前、治療師のハリソンに呼び出され、沈痛な面持ちで告げられた。
「アリア、血蝕病だ。もう核まで侵されている……持っても次の満月までだ」
――あと、一か月。
治るのかと問いかけたが、彼は静かに首を横に振った。私は泣かなかった。ただ、ふっと笑った。カエルは私が死ぬことを望んでいる。なら、この病が代わりにそれを叶えてくれるだけだ。
洞窟を出ると、夕陽が血のように赤かった。崖の端に立ち、遠くの銀月石の砦を眺めていると、五年という年月が唐突に冗談みたいに思えた。
耐えさえすれば、いつか彼は私のよさに気づく。
そう信じていた。
……違った。彼は最初から気づいていた。ただ、どうすれば私を消せるか、そればかり考えていただけ。
「アリア?」
カエルの声で我に返る。目の前に立つ彼は眉間に皺を寄せていた。
「顔色が最悪だな」苛立たしげに私を見下ろす。「傷、まだ治ってないのか?」
私を殺したがっている男が、傷の具合を気にする。笑える。
「平気」顔をそむけた。
「番の儀式の件だが、次はなるべく早く――」
「いつでもいい」私は遮る。「どうでも」
カエルがはっきりと固まった。
五年間、儀式が「事故」で途切れるたびに、私は泣きながら次はいつかと縋った。どうでもいいなんて言ったのは、これが初めてだ。
彼が言葉を探すより早く、甘ったるい声が割り込む。
「カエル~、つらいの……」
ヴィラ・ダークソーン。カエルの初恋の女。いつも「体が弱い」だの「具合が悪い」だの言っては、周りを振り回す。そのヴィラが壁に手をつき、ゆっくりと降りてくる。仕立てのいい獣皮のスカート。血の気のない頬。深い紫の瞳には、壊れそうな脆さが滲んでいた。
「また具合が?」カエルが即座に駆け寄って支える。「休めって言っただろ」
「うん……でも、会いたかったんだもん……」ヴィラは彼の胸に身を寄せ、肩越しに私を見る。「アリアもいたんだ。十七回目の儀式、ひどく傷ついたんでしょ?」
「別に」表情を動かさない。
「それならよかった」ヴィラはカエルへ向き直り、声をさらに柔らかくする。「カエル、今夜は月神祭の大典でしょう? あの白い獣皮のローブを着たいの……でも、荒石の谷の洗い池に置いたままで」少し間を置いて、「アリアに取ってきてもらえない? 暗くなる前に、どうしても必要なの……」
荒石の谷は部族の境界に近い。往復で四刻。獣も多く、夜はさらに危険だ。
それに私は、十七回目の「事故」からようやく生き残ったばかりで、傷も塞がりきっていない。
「アリア、荒石の谷へ行け」カエルが私を見る。命令でも頼みでもなく、当たり前の口調で。
「行かない」
石の広間が、すっと静まり返った。
「……今、なんて?」カエルが目を細める。
「拒否するって言った」
「何か急ぎの用でもあるのか?」顔色が沈み、一歩、また一歩と詰めてくる。「まだ拗ねてるのか」
「違う」
「なら行け」私の目の前で立ち止まり、見下ろす。「ヴィラは体が弱い。服を一着取ってやることすら嫌か?」
「カエル、責めないで……」ヴィラがちょうどいいタイミングで口を挟む。「アリアにも、きっと事情が――」
「いい」カエルは冷たく私を睨む。「こいつは行く」
「どうして?」私は退かない。「ここに住んでるから、あなたの言うことを聞けって?」
「アリア・アッシュボーン!」カエルの声が獣の唸りみたいに低くなる。「銀月部族のものを使ってる以上、規律に従え!」
「従わなかったら?」私は笑う。「追い出す? それとも……また『事故』を作る?」
カエルの瞳孔が、不意に縮んだ。
「何を言ってる」
「あんたがいちばん分かってるでしょ」
「アリア!」声を荒げる。「行かないなら、俺から一切、何も受け取るな!」
足が止まる。痛み止めの薬草が要る。血蝕病は毎日発作を起こす。高いけれど、あれがないと痛みで眠れない。
「脅すの?」ゆっくり振り返る。
「事実だ」カエルの顔は無表情のまま。「銀月石の砦に居座りたいなら従え。嫌なら、出ていけ」
距離を詰め、氷のように言い放つ。
「忘れるな、アリア。銀月部族を離れたお前は……何者でもない」
静かに見つめ返す。十年。私が十年も愛した男が、これだ。
「分かった」踵を返す。「行く」
荒石の谷は、暮れかけた空の下で不気味に口を開けていた。
治りきらない体を引きずって、二刻かけて洗い池に辿り着く。白い獣皮のローブが石の棚に掛かり、風に揺れていた。
それを外し、戻ろうとした瞬間、頭の芯を槌で叩かれたような痛みが走る。膝が地面に落ち、視界が滲んだ。
……血蝕病の発作。
歯を食いしばって立ち上がり、ローブを抱え込む。日が落ちる前に帰らないと。
けれど帰り道は思った以上に暗くなるのが早かった。四方から獣の遠吠えが重なり、背筋を撫でる。歩調を上げた途端、傷が裂けた。熱い血が衣を染めていく。
部落へ戻れた頃には、もう深夜だった。
疲労で足がもつれそうになりながら石砦へ向かう途中、月祭広場が眩しいほど明るいのが見えた。今夜は月神祭の大典。
反射的に目をやって――全身が硬直する。
広場の中央。祭壇の上で、カエルがヴィラを抱き寄せて立っていた。ヴィラは別の、豪奢な紫のローブを纏い、火の光を受けて宝石みたいに輝いている。
カエルが身を屈め、彼女の額に口づけた。
部族の獣人たちが歓声を上げ、手を叩く。
似合っていた。幸せそうだった。最初からそこにあるべき絵みたいに。
私は闇の中で立ち尽くし、腕の中の白いローブを見る。泥と血で汚れた、みっともない白。
彼女にこれは必要なかった。ただ私を苦しめたかっただけ。命がけで取ってきたものが、あの二人には笑い話にすらならない。
ふっと、笑いが漏れた。笑って、笑って――気づけば涙が落ちていた。
十年。兄が彼を庇って死んだあの日から、私はこの男を愛してきた。
耐えれば、いつか返してくれると思った。
十七回も生き残れたのは、月の神が私たちを試しているからだと信じた。
……違う。
彼の目に私は、番じゃない。重荷。枷。今すぐ取り除きたい障害。
それなのに私は、馬鹿みたいに何度でも這い戻って、「まだ愛してる」と言い続けた。
指の力を抜く。白いローブが泥の上に落ちた。
私は背を向け、別の方向へ歩き出す。
雨が降り出した。やがて大粒になり、音を立てて世界を叩く。
雨の中で立ち止まり、獣骨の符を取り出して霊力を流し込んだ。
「アリア? こんな時間に連絡とは……何かあったのか」
ソーン族長。カエルの祖父。老いてなお威厳のある声が響く。
族長は長年、辺境を守っていて、もう三年戻っていない。兄がカエルを救ったあの時、彼はカエルに私を娶わせると約束した。けれど族長は知らない。その約束が、私の悪夢になったことを。
深く息を吸う。
「族長様。私とカエルの番の儀式についてですが……」
雷鳴が落ちた。
目を閉じ、雨に顔を洗わせる。
「完全に取り消してください」
