第2章

アリアの視点

「悪いが、お前にはもう物資を受け取る資格がない」

 部族の物資管理を任されているガリックは表情ひとつ変えず、手にした獣皮の帳面を示した。そこでは私の名前が赤い印で線を引かれ、抹消されている。

 頭の奥へ、杭を打ち込まれるみたいな激痛が突き刺さった。足元がぐらりと揺れ、立っているのがやっとだ。私はただ、今月分の鎮痛の薬草を受け取りに来ただけなのに——返ってきたのは、雷に打たれたような宣告だった。

「カエル様のご命令だ。お前への支給は、すべて停止」

 震える手で受け取りの札を引っ込めた瞬間、頭の中が真っ白になった。

 ——くそ。カエルは、本当に私の逃げ道を全部塞いだ。

 会いに行こうとしても、議事堂の前で衛兵に止められる。石門の前で名を呼び続け、喉が枯れても返事はない。

 深夜。今度こそ、と寝殿の扉の前に立ったときだ。中から、低く掠れたカエルの声が漏れてきた。

「……あんな番の儀式、くだらねえ。俺が愛するのは、お前だけだ」

 手が、宙で固まった。

 そっと扉の隙間を押し開ける。見えたのは、涙でぐしゃぐしゃのヴィラを抱きしめ、額に優しく口づけるカエルの姿だった。

 ぎ、と扉が小さく鳴る。

「誰だ!」

 カエルが勢いよく顔を上げ、扉口の私を認めた瞬間、その眼差しが氷のように冷え切った。。

「……まだ来る気か?」そう吐き捨てると、すぐに立ち上がる。

「配給を戻して」私はまっすぐ言った。「薬草がないと、駄目なの」

「よく口が利けるな」カエルが鼻で笑う。

 眉を寄せる。「……どういう意味?」

「俺の祖父のところへ行って、何を吹き込んだ?」怒りを燃やした目で、カエルが一歩、また一歩と迫ってくる。

「何のことか分からない……」

「とぼけんな!」甲高い声が割り込んだ。ヴィラが飛び出してきて、私を指さす。「ソーン族長に泣きついたくせに、知らないふり?」

「泣きつく?」私は戸惑いながら彼女を見る。「私は、何を——」

「まだ装うの!?」ヴィラが叫ぶ。「大族長が言ったのよ、秋の祭典の聖女の役目を私から取り上げるって! そのために三年も準備したのに! 三年よ!」

 震える指先が私を刺す。

「父の領地だって守れない。狩猟権も全部取り上げられるのよ!」

 息が止まった。「……それが、私と何の関係が……」

「お前の仕業じゃないって言えるのか」カエルが唸る。「祖父から最後通告だ。今月中にお前と儀式を済ませるか——さもなきゃヴィラの未来を潰し、黒木部族との関わりも全部断つ、ってな」

 胸の底がずしりと沈んだ。これが、ソーン族長の「儀式をやめたい」という私の願いへの答え——。

「私は、儀式をしたくないって言いに行っただけ……」言い訳じゃない。必死に言葉をつなぐ。「誰かを傷つけるつもりなんて、本当に……」

「傷つけるつもりがない?」ヴィラが冷たく笑う。「嫉妬でしょ。カエルの心が私にあるって分かってるから」

「違う……」

「嫉妬じゃないなら、なんで取り消しなんて言ったの?」ヴィラがじりじり詰め寄る。「大族長が認めるわけないの、分かってたはずよ。かわいそうな私、って泣いて助けてもらうためでしょ!」

「そんなつもりじゃ——!」私は声を荒げる。

「カエル……」ヴィラが急に胸元を押さえ、顔色を青白くした。「……息、できない……」

「ヴィラ!」カエルが跳ぶように駆け寄り、支える。「焦るな。ゆっくり、吸って」

「平気……」ヴィラは弱々しく彼の胸に凭れた。「ただ……あなたを失うって思うと、胸が痛くて……」

 涙を溜めた目で私を見る。

「アリア、お願い……もう、私たちを許して……私、もう耐えられない……」

「全部お前のせいだ!」カエルが私を睨みつける。「こいつは元々身体が弱いのに、お前が刺激するから!」

「私は刺激なんて——」

「黙れ!」カエルの怒号が寝殿を震わせた。「兄貴に命を救われたからって、それで俺を一生縛れると思ってんのか!」

 喉の奥がきゅっと縮む。「……私、縛ったことなんて……」

「出ていけ!」カエルが扉を指した。「今すぐだ。二度と顔を出すな!」

「でも、薬草が……」私は食い下がる。「お願い、配給だけは戻して……」

「物が欲しいんだろ?」カエルが腰の獣皮袋を外し、私めがけて叩きつけた。「ほら、持ってけ! お前の兄貴の命なんて、この程度だ!」

 袋が私に当たって床に弾け、干からびた獣肉の塊と、薬草が二束ほど転がり出る。私はその場で動けなくなった。

「いいか」カエルが近づいてくる。声は霜みたいに冷たい。「儀式をやったところで、俺の心はお前のものにならねえ。夢見るな」

 屈んで拾い集める。指先が、止まらないほど震えていた。

 ——耐えろ、アリア。ここで泣いたら終わりだ。

「出ていけ!」カエルが再び吠える。

「……分かった」立ち上がり、奥歯を噛み締めた。「今、出ていく」

 二週間後、部族の境界にある廃洞窟。

 銀月石の砦から追い出され、私はこの捨てられた石穴に身を潜めていた。火床もない。獣皮の毛布もない。湿りきった冷たい石壁が、じわじわ心を削ってくる。

 血蝕病は悪化していた。頭痛は頻繁になり、ひどい夜は床に丸まって痙攣しながら朝を待つ。昼は森へ入り、痛みを誤魔化せる薬草を掘った。夜は狩り場で獣皮を剥ぎ、口に入れる分の糧と交換する。

 その一方で、カエルは——何もなかったみたいに、順風満帆だ。

 この二週間、彼がヴィラを溺愛している噂は部族中に広がった。最近の噂では、ヴィラの首には紫水晶の首飾りが架けられており、それが篝火の灯りを受けて、息を呑むほどに映えるという。

「極北から運ばれた品だぞ! 上等な獣皮が千枚なきゃ、交換できねえ!」

 ……千枚。

 洞窟の外の星空を見上げたら、視界が滲んだ。

 薬草なら、どれだけ買えただろう。なのに今は、別の雌の首元を飾るだけのもの。

 部族では、ヴィラが甘えた声で言う。

「カエル~、優しすぎるよ~」

 カエルが笑って答える。

「世界で一番いいものは、お前のためにあるんだ」

 ——昔は、私にも言ってくれた。

 兄が死んだあの冬の夜。カエルは私を抱きしめて、子どもみたいに泣き崩れ、「一生、置いていかない」と繰り返した。熱で意識が飛んだときは、一晩中そばを離れず、少しずつ薬を飲ませてくれた。十八の成人の祝いの日には、極光の谷へ流星を見に連れていき、欲しいものは何でもやる、と言った。

 それが今は、全部違う。

 星を摘んでやると言った少年は、もう、とっくに死んでいる。

 その日、私は部族の市場で、売り物の獣皮を干す手伝いをして飯代を稼いでいた。

 頭痛で視界が暗む。握っていた骨針がふっと力を失い、ぱちん、と地面に落ちた。

「アリア?」

 顔を上げると、少し離れたところにカエルが立っていた。

 私の姿を見た途端、彼の眉間が深く寄る。

 たった二週間。私は骨ばって痩せこけ、目の下は落ち込み、死人みたいな顔をしているのだろう。

「……お前、どうしてそんな……」

 私は答えず、骨針を拾い上げようとして屈む。

 カエルは、しばらく黙って私を見ていた。

 獣骨の先が指に刺さり、ぷつりと血が滲む。赤い滴が獣皮に落ちた。

「もういい」カエルが唐突に言う。「来い」

「どこへ?」

「祭壇だ。今夜、儀式をやる」

 言葉の意味が追いつかない。「……何、言って」

「儀式を望んでたんだろ」カエルは冷えた声で言い放つ。「ほら、機会をやる。今夜で終わらせる。終わったら、誰も誰にも借りはない」

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