第3章
アリア視点
有無を言わさず、カエルは私の手首をつかみ、そのまま祭壇へ引きずっていった。
月神の祭壇の石段の手前で、足がふにゃりと力を失う。立っていることすら、もうぎりぎりだった。
「どうして、よりにもよって今なの……」震える声がこぼれる。
カエルは振り向きもしない。「祖父はもう限界なんだ。今週中に儀式を終えなきゃ、族長の座は別のやつに渡すって――絶対命令を下した」
石段の途中で足を止め、彼は振り返った。目の奥に浮かぶのは、露骨な嘲り。
「おまえ、これを待ってたんだろ? 嫁いできて、銀月部族の族母になる日を」
「違う……そんなこと、一度も……」
「芝居はいい」カエルが遮る。「おまえの兄貴が俺を助けた。だからその恩を首輪みたいにして俺に掛けるつもりだったんだろ。ほら、願いが叶ったじゃねえか」
祭司が儀式の道具を整える中、カエルの腰の通信符がふいに光った。
濃い霊力の波。彼がちらりと目をやる。その表示を、私も見てしまう。
発信者――「女神様💕」
ヴィラの印。
胸の真ん中に穴を開けられたみたいだった。ここまで来ても、彼の女神は彼女なのだ。
カエルは苛立たしげに霊力を断ち切った。けれど通信符は懲りずに点滅を繰り返す。ぱっ、ぱっ、と。まるで告げ口みたいに――彼の心は、ここにはないのだと。
「アリア様?」祭司が促す。「誓血を、お捧げください」
カエルは腰の骨刃を抜き、手のひらをざくりと裂いた。滴った血が、祭壇の溝へ落ちていく。
「次はおまえだ」刃を私の手に押し付ける。
柄を握った指が、がたがたと止まらない。
「わ、私は……」刃先を見つめる。「本当は、わたし……」
「嫌だって?」カエルが鼻で笑う。「十年待ったんだろ、この瞬間を。切れ!」
そのとき、祭壇の下から慌ただしい足音が駆け上がってきた。
カエルの副長が、よろめきながら駆け込んできた。顔は真っ青だった。
「カエル様! 大変です!」
「言え!」
「ヴィラ様が襲撃されました!」息を切らし、「治療室で処置中ですが、重傷です!」
カエルの顔色が一瞬で抜けた。「……何だと?」
「それから……」副長が私を見て、言い淀む。「襲撃者は捕らえました。供述では……アリア様の指示だと」
頭の中が、ぶん、と鳴った。「……え? 私が、何を……」
「襲撃者は、アリア様から珍しい薬草の袋を渡され、ヴィラ様を殺せと言われたと……」
「嘘よ!」首が折れそうなくらい、必死に横に振る。「私、食べるものだって足りないのに、どこにそんな薬草があるの!」
「黙れ!」カエルが駆け寄り、躊躇なく頬を打った。
ぱん――
身体が横に吹き飛び、背中が石柱に叩きつけられる。息が詰まった。
「この毒婦!」目が赤く染まっている。「俺が番として迎えるって言ったのに、それでもあいつの命が欲しいのか!?」
「違う……本当に、違う……」頬を押さえると、涙が止まらない。「カエル、信じて……」
その瞬間、首元がひやりとした――兄がくれた骨牌の紐が切れたのだ。
兄の髪を納めたその骨の小箱が床に落ち、ころころと転がって、カエルの足元で止まった。
それを見たカエルの目に、さらに凶い怒りが灯る。「死んでも、まだ足を引っ張る気か」
彼は足を上げ、その小箱を思いきり踏みつけた。
「やめて!」悲鳴を上げて飛びつく。だが、間に合わない。
ぱき――
小箱は砕け、兄の髪が散らばった。
「踏まないで!」泣きながら覆いかぶさり、彼の足を押しのけようとする。「お願い! それは、兄が残してくれた……!」
「俺はおまえの兄貴に借りなんかねえ!」カエルが怒鳴り、砕けた欠片をさらに踏みにじる。「十年も兄妹そろって絡みつかれるくらいなら、あのとき死んだ方がマシだった!」
「どけ!」蹴り飛ばされ、床に転がった。「こんなゴミ、消えちまえ! おまえも一緒に消えろ!」
私は正気を失ったように飛びつき、両腕で彼の脚にしがみついた。兄のものを、これ以上汚させたくなくて。
「離せ!」カエルはもう片脚を上げ、私の右手に容赦なく踏みつける。
「――っあああっ!」
骨が砕ける痛みが、体を駆け抜けた。
「お願い……お願い……それは、兄の……」嗚咽で息が続かない。それでも手は離せなかった。
カエルはとうとう完全に爆発した。両手で私の首を絞め上げる。
「なんでおまえら兄妹は、俺を壊そうとするんだよ!」
締め付けが強くなる。息が吸えない。
世界がぐらりと揺れ、闇がじわじわと視界を塗りつぶしていく……。
目を覚ましたとき、私は生贄の石台に縛りつけられていた。手首には深い切り傷。血が石台の溝を伝い、下の聖血の池へ落ちていく。
ここは、重傷の族人を救うための聖血の池――。
カエルはその縁に立っていた。陰鬱な顔が、怖いほど冷たい。
「……ここは、どこ……?」声が自分でも驚くほど弱い。
「聖血の池だ」カエルの声は氷みたいだった。「ヴィラの傷が重い。おまえの血が必要なんだ」
縛めをほどこうともがく。「どうして、私の……」
「おまえの月霊の血は重傷に効く」流れ落ちる血から目を離さない。「払うべき代償だ」
「でも、私は彼女を傷つけてない……」縋るように言う。「カエル、信じて。お願い……」
「証拠が揃ってるのに、まだ口を開くのか?」近づき、見下ろしてくる。「ヴィラは生死の境だ。おまえのせいでな」
血は止まらない。身体の芯から冷えていく。
「もう、十分じゃないの……?」掠れた声で懇願する。「こんなに……」
「十分?」カエルが冷笑した。「あいつが流した分、おまえが返せ。続けろ」
動こうとして、足首にも傷があることに気づいた。
「カエル……寒い……」
「寒いなら寒いままでいろ」彼は私を見ようともしない。背を向けて祭司に告げた。「こいつはヴィラの命を脅かしたんだ。償いとして不足なら、もっと抜け」
血が流れ続け、視界がどんどん霞んでいく。
月霊の血を失えば失うほど、血蝕病は容赦なく牙を剥く。頭の中を、無数の骨の棘がかき回しているみたいに痛い。
「わたし……もう……無理……」
カエルは一度も振り返らずに歩き出した。「自業自得だ」
意識が遠のき、腕がだらりと落ちる。
冷たい石の上で、血だけが流れていく。
――これでいい。死ねばいい。
少なくとも……もう、痛くない。
カエル視点
一刻ほどして、俺はヴィラの治療室から出た。ようやく息がつける。
治療師は言った。月霊の血を注いだことで、ヴィラは峠を越えたと。
「カエル様」副長のローナンが近づいてくる。
俺はうなずく。「アリアはどうした」
ローナンが一瞬、言葉に詰まる。「……まだ、生贄の台に。カエル様が、血が足りるまで止めるなと……」
