第4章

アイリス視点

 エイドリアンは私を押さえつけ、慌てふためいた声で言った。

「何を馬鹿なことを。落ち着け、お前を死なせたりしない」

 私は彼を見つめたまま、何も答えなかった。もう、言葉を交わす気すら起きなかった。

 それからの五日間、彼は片時も私のそばを離れなかった。かつて私が好きだった料理を作り、昔の美しい思い出を語り、私の手を握ろうとした。私は皿をひっくり返し、背を向け、彼の頬を平手で張り飛ばした。頬を打たれても、彼はやり返そうとはせず、ただ私をじっと見つめていた。そして決まって、こう口にするのだ。

「いつか分かってくれるはずだ。俺が本当に愛しているのはお前だけだと、時間が証明してくれる」

 彼は分かっていない。

 一度砕け散ったものは、どう繕っても二度と元には戻らないということを。

 五日目の深夜、携帯が微かに震えた。暗号化されたメッセージ。そこにはたった一行、こう記されていた。

「今夜零時、北門から二キロ先」

 エイドリアンが組織の処理で席を外すのを待ち、私は重い身体を無理やり起こした。まだ立っているのもやっとの状態だったが、行かなければならない。これ以上ここにいたら、私は狂ってしまう。

 巡回するボディガードたちの目を盗み、屋敷の塀を乗り越える。かつてのような身軽さはなく、着地の瞬間に足がもつれそうになった。そのまま十歩も歩かないうちに、突然後頭部に鋭い痛みが走った。

 視界が、真っ暗に塗りつぶされる。

 次に目を覚ました時、私は氷のように冷たい地面に座らされていた。両手は背後に回され、きつく縛り上げられている。遠くには漆黒の海が広がり、荒波が岩肌を打つ轟音が耳をつんざく。

 ここは、断崖絶壁の縁だった。

 数メートル先には、エヴリンとタイラーも同じように縛られていた。エヴリンの化粧は涙で崩れ、タイラーは恐怖で全身をガタガタと震わせている。

 私たちの前には、顔に醜い傷跡のある男が立っていた。見覚えがある。エイドリアンと敵対する組織の幹部の一人だ。

 傷跡の男は獰猛な笑みを浮かべながら、携帯で通話していた。

「よう、ブラックウェルさんよ。お前の女房と愛人、それからあのガキも、みんな俺の手の中だ。断崖まで来な。ここで待っててやるよ。いいか、一人で来い」

 それから間もなく、エイドリアンが一人で血相を変えて駆けつけてきた。私たちの姿を視界に捉えた瞬間、彼の顔から血の気が引く。

 傷跡の男は懐から銃を抜き、私の額に狙いを定めた。

「ブラックウェルさん、二者択一のゲームがお好きらしいな? 三年前は二人のガキから選ばせたそうじゃねえか。今日は二人の女から選ばせてやるよ」

 男は私を蹴り飛ばし、崖の縁ギリギリまで転がした。さらにエヴリンとタイラーも蹴り飛ばし、安全な平地側へと転がす。

「三つ数える間に、どっちか片方を選べ。あの母子を助けるなら、女房は崖の下へ真っ逆さまだ。逆に女房を助けるなら、あの母子の頭に穴を開けてやる」

 エイドリアンの視線が、私とエヴリンの間を激しく往復する。

 私は彼を静かに見つめた。答えなど、とうに分かっている。

「一」

「二」

 エイドリアンは弾かれたようにエヴリンとタイラーのもとへ飛び込み、二人を背後に庇うと、私に向かって絶叫した。

「そこで待ってろ! すぐに人を連れて戻ってくる! 怖がるな、絶対に助け出してやるから!」

 傷跡の男は腹を抱えて高笑いした。

「また同じ選択じゃねえか!」

 エイドリアンはエヴリン母子を連れ、逃げるようにその場から立ち去った。

 後に残されたのは、私と傷跡の男だけ。

 私はそっと目を閉じる。

 心臓を丸ごとくり抜かれたような虚無感。もはや怒りすら湧かない。ただ、骨の髄まで凍りつくような冷たさだけが残っていた。

 深く息を吸い込み、無理やり思考をクリアにする。手首を縛るロープはきつかったが、少しずつ背後の岩肌に擦りつけ続けた。手首の皮が破れ、肉が裂ける。極限まで衰弱した身体には激痛が走り、幾度も気を失いそうになったが、歯を食いしばって耐え抜いた。

 やがて、手首のロープがふっと緩む。

 傷跡の男が油断した隙を突き、私は獣のように跳ね起きた。渾身の力を込めた手刀を男の頸動脈へと振り下ろす。男は咄嗟に身を躱したが、私はすかさずその膝関節に痛烈な蹴りを叩き込んだ。男が体勢を崩した瞬間、その手から銃を奪い取り、冷たい銃床をこめかみへ容赦なく打ち据える。

 男は白目を剥き、そのまま地面に崩れ落ちた。

 よろめく足に鞭を打ち、崖から離れようとしたその時。

 遠くから乱れた足音とともに、声が響いた。

「アイリス!」

 振り返ると、エイドリアンが部下たちを引き連れ、血相を変えてこちらへ向かって走ってくるのが見えた。その顔には、隠しきれない焦燥が張り付いている。

 次第に近づいてくる彼を見つめながら、私の脳裏にはたった一つの思いしかなかった。

 もしあの男に連れ戻されれば、待っているのは終わりのない軟禁と、精神を削り取るような苦痛。そして、吐き気を催すほど虚偽に満ちた「償い」と「愛している」という言葉だけだ。

 死んだって、あんな場所へは戻らない。

 私はきびすを返し、断崖の縁へと駆け出した。

「止まれ! 何をする気だ!」

 エイドリアンの底知れぬ恐怖が混じった絶叫。彼は狂ったように加速し、こちらへ手を伸ばす。

 私はついに、断崖の最果てに立った。

 足元に口を開けるのは、百メートルはあろうかという垂直の絶壁。その底には、すべてを呑み込む漆黒の海。荒れ狂う潮風が私の長い髪を乱し、氷のように冷たい飛沫の匂いが鼻腔を突く。

 不思議なことだが、この瞬間の私を包んでいたのは、かつて感じたことのないほどの圧倒的な自由だった。

 エイドリアンが崖の縁まで辿り着いた。私との距離はわずか五メートル。だが、それ以上踏み出すことはできず、空中に伸ばした手は惨めに震えていた。

「そんな端に立たないでくれ、少し下がれ。戻ってこい、ちゃんと話し合おう」

 私は彼に向き直り、冷たく言い放つ。

「話し合う? 私たちの間に、まだ話すことなんて残っているの?」

「俺は、人を連れてお前を助けに戻るつもりだったんだ! わざとお前を見捨てたわけじゃない!」

「あなたには、いつだって言い訳がある」私は淡々と紡いだ。「あの波止場でタイラーを選んだ時も、イーデンは必ず助けると言った。地下室で私を殴った時は、私が聞き分けないからだと言った。墓地でイーデンの遺灰を水に捨てた時は、エヴリンたちのためだと言った。そして私を置き去りにした時も、すぐに戻ってくると言った……もう疲れたの。あなたのその言い訳を聞くのには、もううんざりなのよ」

 エイドリアンの両目は真っ赤に充血し、今にも膝から崩れ落ちそうだった。

「俺が間違っていた! 取り返しのつかないことをしたと分かってる! でも、どうかもう一度だけチャンスをくれ! 誓う、エヴリンは遠くへ追いやる。俺の残りの人生をすべて懸けて、お前に償うから!」

 私は自嘲気味に笑い、足元の暗い海面を指差した。

「償う? ここがどこだか、覚えてる? 三年前、イーデンはまさにこの海で、あなたに殺されたのよ。だから今、私もここで死ぬ。そうすれば、地獄で彼女のそばに行ける。あの子に、ごめんねって謝れるかもしれない」

 エイドリアンの顔色から、最後の血の気が失せた。

「やめろ、頼む。お前が望むものなら何でもやる! 俺を殺したっていい! だからお願いだ、飛ばないでくれ!」

 彼が一歩踏み出そうとした瞬間、私はさらに後ろへ下がる。踵が完全に宙に浮いた。

 エイドリアンは石のように硬直し、息を呑む。

 私は静かに目を閉じた。

「知ってる? 私の人生で一番の未練は、十年前、あなたのそばで盾になることを承諾してしまったこと。ブラックウェル一族には拾われた恩があった。だから今、この命でそれを返す。これで、私たちに借りも貸しも何もない」

 目を開け、かつて愛した男を見据える。

「あの世への道を歩くのに、あなたが一緒じゃ吐き気がする。二度と、私に関わるな」

 両腕を大きく広げ、私は一切の迷いなく、虚空へと背中から倒れ込んだ。

「やめろおぉぉっ!」

 獣のような凄絶な絶叫が響き渡る。エイドリアンは狂乱状態のまま崖の縁へと身を投げ出し、空の彼方へ必死に腕を伸ばした。

 その指先が、私の服の裾をかすめる。

 次の瞬間、私は果てしない闇の中へと墜ちていった。

 耳元で風が猛烈に咆哮している。

 絶望に歪み切った彼の顔が、急速に遠ざかり、豆粒のように小さくなっていく。

「アイリスぅぅぅ!」

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