第1章
私は星野和人と、物心ついた頃からずっと一緒に育ってきた。二人そろって、いつかトップシェフになるのが夢だった――けれど私は知っている。神様に味覚を祝福されたのは、私じゃない。あいつのほうだ。
だから、街の不良娘である白石莉央が彼に付きまとったとき、私は彼の代わりに酒を煽り、タバコを遮り、ビンタを浴びた。彼が酔い潰れた彼女に付き添うために「全日本青年シェフコンテスト」を諦めようとしたときは、私が彼を無理やり第一実習室へと連れ戻した。
和人は優勝した。ミシュラン三つ星の店に特別枠で採用され、卒業後は億を超える資産を築いた。いっぽう私は、彼のレストランの厨房で、誰も気にも留めない下処理係になった。
そして――莉央がうつ状態のまま暴走運転で死んだ日、和人は私を地下室へ誘い込んだ。
「全部お前のせいだ! お前が余計なことをしなければ、莉央は死ななかった!」
右手を踏みつけられ、骨の砕ける音が響いた。私の指は、ぐしゃりと潰れて瓦礫と化した。
午前五時に起きて、代わりに早朝の魚市場へ走った日々。炉の火を守りながら四十八時間、出汁を煮詰めた夜。卒業実技試験での、あいつの栄光。全部、私の積み重ねだったのに――返ってきたのは憎しみだけ。
「その、包丁しか握れない手はな。あいつと一緒に埋めてやる」
激痛が、私を飲み込んだ。
次に目を開けたとき、私は――和人が「バーに行く」と言い出した、あの午後へ戻っていた。
今度は、止めない。
「紗季! 紗季! なにボーッとしてんだよ。俺が話してんの、聞こえてる?」
苛立った男の声が耳元で弾け、私ははっと我に返った。胸を押さえ、息を荒くする。
視界がゆっくりと輪郭を取り戻す。明るい修英調理芸術学院・第一実習室。整然と並ぶステンレスの作業台。目の前には、二年生用のコックコートをきっちり着込んで眉間に皺を寄せた和人。
私は自分の手を見下ろした。白くて長い指は、どこも歪んでいない。傷ひとつない。
戻ってきた。大学二年の春学期――全国青年シェフコンテスト学内選抜、その一か月前。
前世の悲劇は、ここから始まった。
「聞いてんのか?」私の反応が薄いのを見て、和人の声はさらに荒くなる。首元のコックタイを乱暴に引きちぎるように外し、まな板の上へ放り投げた。
「莉央が今日、機嫌悪くてさ。バーで飲みすぎてんだよ。あいつ、誰もそばにいないと危ねえだろ。今日のコンソメの調理実技審査、俺、受けねえ。上田先生にはお前から言っとけ。胃が痛いって」
前世の私は、涙がこぼれそうになりながら和人の腕にしがみつき、必死で止めた。上田先生の審査がどれだけ大切か、バーの煙と粗悪な酒が味覚を壊すことまで訴えた。挙げ句の果てにはバーへ突っ込んで、莉央を怒鳴りつけ、和人を引きずって学院へ連れ戻した。
あの審査で和人は一位。私は、彼のためのスープを煮て自分の準備が遅れ、ぎりぎり合格点。なのに和人は礼ひとつ言わず、私のことを「余計なことをするやつ」だと決めつけた。莉央との間に誤解が生まれたのも、全部私のせいだと。
背筋に冷水を一気に浴びせられたような、最悪の記憶が蘇る。目の前の若くて傲慢で、当然のように命令する顔が――滑稽で仕方なかった。
私、本当にどうしようもない。
深く息を吸い込み、胸の奥で渦巻く殺意と吐き気を、ぎゅっと押し潰す。
「……いいよ」
自分の声が、驚くほど平坦だった。
和人が固まった。いつものように私が泣いてすがりつき、止めると思っていたのだろう。言い返す言葉まで用意していた顔だ。
「は……? いま、なんて?」
「いいよ」私はまな板の横のふきんを取り、ゆっくり台を拭き始めた。
「上田先生にはそのまま伝える。早く行って。莉央が一人でバーにいるの、確かに危ないでしょ」
和人の視線が揺れた。私の顔に、拗ねた様子や駆け引きの色を探す。けれど私は、彼を一度も見ない。
「紗季、お前がそう言ったんだからな。あとで先生んとこ行って、俺の悪口言うなよ」
鼻で笑って、和人は大股で第一実習室を出ていく。
扉の手前で、ふいに立ち止まり、振り返った。施しでも与えるみたいな口調で言う。
「あとさ。明日のリブロースの火入れ練習、パイ生地、先に仕込んどけよ。バターは25度の常温な。間違えんな」
私は手を止め、顔を上げて、まっすぐ和人の目を見た。
「和人」
小さな声なのに、広い実習室に妙に響いた。
「……なんだよ」
「手、折れてるの?」
一拍置いて、淡々と言い切る。
「パイ生地も作れないなら退学して。恥さらし」
和人の顔が、瞬間、真っ赤に染まった。化け物でも見るみたいに私を見て、唇がひくつく。
私はもう相手にしない。くるりと背を向け、食材保管庫のほうへ歩き出す。
「紗季! お前、頭おかしいんじゃねえのか! 覚えてろよ!」
背後で扉が叩きつけられ、ガンッと乾いた音が響いた。
私は食材保管庫の壁に背を預け、口元だけを冷たく吊り上げる。
頭がおかしい? 違う。前世から頭に溜め込んでいた泥水を、すべて吐き捨てただけだ。
誰かを救わなきゃ、なんて思い上がりは捨てる。他人の選ぶ道を、ちゃんと他人のものとして扱う。高木和人。そこまで泥沼が好きなら、今世の私は絶対に止めない――むしろ、そのまま一歩ずつ腐っていくのを、最後まで見届けてやる。
私の青春も、私の才能も。今日からは、私のためだけに咲かせる。
食材保管庫の扉を閉める。外の喧騒が、すっと遠のいた。
