第2章

 そう言い終えると、私は踵を返し、大殿の外に整列する数万の熾天使たちへ向き直った。

「神聖軍団、命令を聞け!」

「はっ!」

 数万の熾天使が一斉に唱和する。声は天を揺らし、雲を震わせた。

「本日より、我が名はセシリア。天界統帥の任を辞す!」

「熾天使全軍、核心神域より撤収! 光輝聖域へ退き、防衛線を敷け!」

 アーサーが、完全に青ざめた。

 私が冗談ではなく、本気でやるとは思っていなかったのだろう。熾天使は天界随一の戦力。それを私が引き連れて去れば、天界の防壁は一気に半分崩れる。

「セシリア、お前……正気か! それは反逆だ!」

 怒号とともに、神王としての威圧を叩きつけてくる。だが私は、振り返りすらしない。

 背で轟、と空気が裂けた。六枚の巨大な金の翼が一斉に開き、眩い聖光が奔流となって、彼の威圧を跡形もなく押し流す。

「これから先、二度と会わない」

 翼を打つ。私は光の矢となって天へ駆け上がった。

 数万の熾天使が後に続く。空を覆い尽くす影が、吐き気のするこの聖殿から離れていった。

 残されたのは、地団駄を踏むアーサーと、口をあんぐり開けた野次馬たちだけ――。


 光輝聖域へ退いてからの三か月は、私にとって最も静かな日々だった。

 尽きることのない深淵の戦況報告もない。アーサーの、当然のような要求もない。

 私は光輝聖域の結界を全面展開し、核心神域との繋がりを完全に断った。

 前の私は、熾天使一族の資源をことごとく無償でアーサーへ差し出していた。結果、族人たちの修行はほとんど停滞し、深淵侵攻の折に皆、なすすべなく蹂躙された。

 今度は違う。

 神聖晶石は一つ残らず配給した。私自身が修練を指導し、光輝聖域の戦力は短期間で目に見えて伸びていく。

 一方、核心神域は――明らかに苦しい。

 熾天使軍団を失った防衛線は穴だらけで、深淵縁辺の要塞は次々と危機に陥った。アーサー配下の無能な将らでは、深淵の魔物の波を押し返せないのだ。

 その日、私は聖泉のほとりで目を閉じ、静かに気を整えていた。

 結界の外から、どん、と強烈なエネルギーの波が打ち寄せる。

 目を開くと、金の神王鎧を纏ったアーサーが結界の外に立っていた。背後には、震え上がる神使が数名。

「セシリア! 結界を開けろ!」

 外で喚き散らす姿に、神王の体面など欠片もない。

 私は冷たく嗤い、指先で結界の一角だけをほどいた。

「神王陛下は、いつもの甘い場所で大人しくしていればいいでしょうに。こんな辺鄙なところに、何の用?」

 腕を組み、見下ろす。

 三か月。私の神力は衰えるどころか、情の枷を断ったことで押し上げられ、半歩――至高神の域へ踏み入れていた。

 アーサーの目に一瞬、複雑な色が走る。だがすぐに、いつもの「当然」の顔に戻った。

「セシリア。三か月も拗ねていれば、もう十分だろう」

 施しのような口ぶりで言う。

「前線が逼迫している。本王の命令だ。直ちに熾天使軍団を率いて防衛線へ戻れ」

「戻るなら、先の抗命の罪は不問にしてやる」

 私は彼を見る。――まるで、愚か者を見る目で。

「アーサー、深淵の魔物にでも脳を齧られたの?」

「三か月前に言ったでしょう。私は辞任した。婚約も破棄した」

「天界が滅びようが、私には関係ない」

 アーサーの顔が硬直する。

 だが一度息を吸い、話を続けた。

「いい。防衛線の件は後回しでも構わん」

「今日、来たのはリリスの件だ」

 ――やっぱり。

 胸の奥で、乾いた笑いが転がった。三言目にはあの女。

「リリスの神魂の傷が悪化した。天界の薬師が言うには、至純の熾天使の血でなければ救えないそうだ。セシリア、お前は族長。お前の血が最も清い」

 アーサーが私を見据える。焦りが滲む。

「血を三滴寄越せ。本王はそれで帰る。二度と厄介はかけん」

 あまりにも軽い口調だった。まるで求めているのが私の血ではなく、水の一杯であるかのように。

 熾天使の血は、本源の力の結晶だ。一滴でさえ神格を損なう。

 それを三滴――。

 前の私は、その言葉で神罰柱に縛られ、血を絞り尽くされた。

「私はお前の薬ではない。二度と私を当てにするな」

 アーサーが言葉を失う。ここまで即答で拒まれるとは思っていなかったのだろう。

「セシリア! リリスがもうすぐ死ぬんだぞ!」

 咆哮が結界を震わせた。

「お前は……かつては善良だった! 一つの命が消えるのを、見殺しにするのか!」

「いつからそんな冷酷で、身勝手になった!」

 その厚顔無恥に、笑いが込み上げた。

「死にそうなら、深淵魔王にでも解毒薬をもらいに行けば? 私に何の用?」

「私が冷酷? 身勝手?」

 一歩、また一歩と距離を詰める。刃のような視線で突き刺した。

「この千年、私はお前のために何度、暗殺の矢を受けた?」

「お前のために何度、血を流した?」

「お前は私の尽力を当たり前だと踏みつけて、振り向けば功績も寵愛も、全部あの女に与えた」

「そして今度は、あの女を救うために私の血を抜こうって?」

「アーサー……私が慈善事業でもしてると思ってるの?」

 アーサーは押されて後ずさり、顔色が青と白の間で揺れる。

「セシリア! 度が過ぎるぞ!」

 逆上し、神王剣を抜いた。

「本王は天界の主だ! この世のすべては本王の領分!」

「お前の血も――本王のものだ!」

「今日の血は、出してもらう。拒もうが、関係ない!」

前のチャプター
次のチャプター