第4章
彼の真剣な横顔を見ていると、胸の奥にじんわりと温かいものが広がった。
前世で抱えた悔いを――今度こそ、埋められる。
私は立ち上がり、彼の前まで歩み寄って肩をぽん、と叩く。
「光輝聖域へようこそ、ユリアン。アーサーが天界を玩具みたいに壊し尽くしたいって言うなら……あいつがどうやって死ぬか、見届けようじゃない」
大殿の外の空を見上げ、口元だけで冷たく笑う。
芝居は――もうすぐ始まる。
三か月後。
アーサーは、ついにとんでもない騒ぎを起こした。
各種族の長老たちが激しく反対する中、リリスのために最高格式の封后大典を執り行うと強行したのだ。
それだけじゃない。最高位の神諭令まで発し、天界の全神に「必ず自ら出席して祝賀せよ」と命じた。
逆らう者は異端。神格を剥奪する――そう言い切って。
「セシリアお嬢様、アーサーの神諭令がこちらにも届きました」
ユリアンが巻物を差し出してくる。
「これは、あなたへの示威です。もし出席しなければ、それを口実に他の神族をまとめて光輝聖域へ討伐を仕掛けるでしょう。出席すれば、式典の場で恥をかかせに来るはずです」
私は巻物を受け取り、机の上に放り投げた。
「行くに決まってるでしょう」
唇が自然と吊り上がる。
「これだけ金も手間もかけて舞台を組んだのに、観客の私が欠席したら失礼ってものよ」
計算は合っている。リリスの体内に巣食う深淵の魔気は、天界の至宝を十分に吸い込み――もはや抑えきれないところまで来ているはずだ。
この大典は、血に染まる葬式になる。
当日、核心神域は悪趣味なほど贅を尽くしていた。
九万層の階段は星屑の欠片で敷き詰められ、空気には生命の泉の甘い香りが満ちている。
けれど、その香りの下に押し込められているのは――各族の神々が「怒りたくても怒れない」澱んだ怨嗟だった。
私はユリアンと、精鋭の熾天使たちを連れ、きっちり頃合いを見計らって聖殿へ入った。
ざわめいていた聖殿が、私が足を踏み入れた瞬間――すっと凍りつく。
無数の視線が私に突き刺さる。畏れ、同情、そして嘲り。
私は気にせず、最前列の貴賓席へ一直線に向かった。
宝座にふんぞり返っていたアーサーは、私の姿を見つけると、目に小さな得意げな光を浮かべる。
神諭令に屈し、頭を下げに来た――そう思っているのだろう。
「セシリア。来てくれて本王は嬉しい」
アーサーは見下ろすように言った。
「今日、大人しく観礼し、神后に礼を尽くすなら……お前を許すことも考えてやろう」
私は席に腰を下ろし、足を組む。
「アーサー、今日はせいぜい喋っておきなさい。だって――その場所に座っていられるのも、これが最後よ」
アーサーの顔色が変わり、怒鳴り返そうとした、その時。
脇の神官が青ざめた顔で、震える声を張り上げた。
「吉時、至れり! 神后、御入場!」
荘厳な聖楽が響き渡り、リリスが純白の神后礼装に身を包み、侍女たちに支えられながらゆっくりと歩み入ってくる。
頬には血色が差し、つい先日までの病んだような薄っぺらい媚びは影も形もない。
アーサーはたちまち甘い表情に切り替え、階段を下りてリリスの手を取った。
「リリス。今日からお前が、天界の女主人だ」
深々と囁き、神后の権威を象徴する冠を、ゆっくりとリリスの頭上へ運ぶ。
会場の神々は強いられるように立ち上がり、礼の姿勢を取ろうとした。
――冠が、リリスの頭頂に触れた、その瞬間。
異変が弾けた。
晴れ渡っていた空が、どろりとした黒雲に呑み込まれる。
聖殿に燃え盛っていた聖火が、一斉に不気味な紫黒へと染まった。
そして、底知れぬ邪悪さと氷のような冷たさを帯びた気配が――リリスの体内から轟然と噴き上がる。
最も近くにいた侍女数人が、ひゅっ、と息をする間もなく血霧へと散った。
場内が一瞬で地獄になる。
「何が起きた!?」
「深淵の気配だ! 魔物の侵入か!」
神々の悲鳴が重なり、蜘蛛の子を散らすように後退していく。
アーサーは正面からその魔気を浴び、よろめきながら数歩吹き飛ばされた。
信じられない、という顔で目の前のリリスを見つめる。
リリスの白い礼装は漆黒の魔甲へと変質し、清純だった顔には不気味な黒い魔紋が這い回っていた。背には、暗紫の巨大な蝙蝠の肉翼が、ぎちり……と音を立てて開いていく。
「リリス……どうした……?」
アーサーの声は震え、なおも手を伸ばそうとする。
「触るなよ、この愚か者」
リリスはアーサーの手を叩き落とした。
甘ったるい声は消え失せ、耳を裂くような鋭さと嘲笑だけがそこにある。
彼女はふわりと宙に浮かび、見下ろすようにアーサーを見据えた。
「教えてやるわ、アーサー。私は深淵魔王の娘――魅魔の姫、リリス。あんたを思い通りに動かすために、わざわざ聖女の皮を被って近づいてやったの」
嗤う。
「何度も抱かれて、そのたびに聞かされる自惚れた愛の台詞……気持ち悪くて、食事も喉を通らなかった」
リリスは腹の底から笑い声を響かせた。
「もう用はない。天界は――滅びる時が来たのよ!」
