第2章

 行くしかなかった。

 ほかにどうしろというのだ? 玲奈からの報酬があれば、妹の治療費をさらに二ヶ月分まかなえる。

 自分に言い聞かせた。彼は私が誰なのか知らない。部屋は真っ暗だ。ただの仕事だと思えばいい、と。

 だが、その夜の彼は常軌を逸していた。

 声で正体がバレるのを恐れ、私は必死に枕を噛んで声を殺した。

 すべてが終わる頃には、空は白み始めていた。

 彼が眠っているすきにこっそりと抜け出した。足に力が入らず、廊下でへたり込みそうになった。

 仕事には遅刻した。

 全身の痛みに耐え、目の下に隈を作ったまま、這うようにして自分の机に着いた。隣の席から美咲が身を乗り出してくる。「結衣、大丈夫? すっごく顔色悪いよ」

 適当にごまかそうとしたその時、黒い影が近づいてくるのが視界に入った。

 司だ。

 今日の彼は黒のシャツを着ており、まくられた袖から前腕が覗いていた――

 そこには、くっきりと歯型が。

 私がつけた、噛み跡。

 私は弾かれたようにうつむいた。心臓が早鐘のように鳴っている。

 彼は私の机の横を通り過ぎた。立ち止まることなく。そのまま歩き続ける。

 ふうっと息を吐き、彼の背中を盗み見た――ちょうど彼が振り向き、私と目が合ったその瞬間に。

 その眼差し。冷たく、重い。

 背筋が粟立った。

 気づかれた?

 まさか。昨夜はばっちりメイクをして、髪も下ろしていた。今の私とは似ても似つかないはずだ。

 心の中で自分を励まし、パソコンの画面に向き直る。

 業務用のメールソフトを開く。

 昨日、総務部の担当者から黒崎社長にデータ報告書を送信しておくよう頼まれていた。送ったはずだ。

 送信済みフォルダを開く。

 そして、私は石のように固まった。

 メールの添付ファイルは、エクセルではなかった。

 それは、玲奈に書かされたあの書式。

「添い寝体験レポート」。

 スタミナ評価。激しさ評価。総合満足度……。

 さらに、気を抜いて書き殴った私の個人的なメモまで。「全然優しくない!! 乱暴すぎ!」

 視界がぐらりと揺れた。

 嘘嘘嘘嘘嘘。

 私は弾丸のように社長室へと飛び出した。頭の中にあるのはただ一つ。見られる前に削除しなければ。

 ドアを押し開ける。彼はデスクの奥に座っていた。顔を上げ、片方の眉をひそめる。

「桜井さん?」彼の視線が私の名札をかすめた。「何か用か?」

 彼のパソコンは起動している。

 メールの受信トレイが開かれている。

 心臓が止まるかと思った。

「黒崎社長、あの……間違えて迷惑メールを送ってしまったかもしれなくて。その、できれば――」

「メール?」彼は画面に目をやり、平坦な声で言った。「メールなど一通も届いていないが」

 彼がモニターをこちらへ向ける。

 受信トレイは空だった。

 私は瞬きをした。

 ない? 遅延? それともフィルターに弾かれた?

 なんでもいい。とにかくこの場を切り抜けられれば。

 失礼しますと言って退室しようとした時、彼が再び口を開いた。「首のそれはなんだ?」

 彼の視線が、私の鎖骨のあたりに落ちていた。

 下を向く――襟元が緩み、昨夜つけられた赤い痕が露わになっていた。

 顔から火が出るほどの羞恥に襲われ、私は慌ててシャツの襟をかき合わせた。「これは……彼氏が――」

「彼氏?」彼はその言葉を繰り返し、感情の読めない声で言った。「ずいぶんと情熱的だな」

 彼の顔をまともに見ることができなかった。私は何かをモゴモゴと呟き、逃げるようにその場を後にした。

 自分の席に戻っても、心臓の鼓動は鳴りやまなかった。

 さっきの彼のあの眼差し。

 まるで、私の知らない何かをすでに知っているかのような。

 スマホが震えた。玲奈からだ。

「結衣! 私の婚約者ったら急にロマンチックになっちゃって! 彼の別荘に引っ越してこないかって言われたの!」

「もちろん断ったわよ、何を企んでるかわかんないし」

「でもカードキー渡されちゃって。いつでも来ていいって。私はいらないから、結衣にあげる。物置にでも何にでも使って~」

 私はそのメッセージを見つめ、それから社長室の方をちらりと見た。

 彼の別荘に引っ越す?

 正気なの?

 私は即座に断りの返信をした。

 しかし、三日後――。

「結衣ちゃん、悪いんだけど明日までに出て行ってもらえないかな。親戚が来ることになっちゃって」

 大家からのその電話が、決定打となった。

 私は手の中のカードキーを見つめた。

 彼は滅多にそこには滞在しないと言っていた。

 ほんの数日だけ。次の場所が見つかるまで。

 バレるわけがない。

 ……よね?

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