紹介
問題その一、彼は私の上司だった。
もっと大きな問題、半年間、彼の婚約者になりすましてオンラインで彼を騙していた。
今、私は妊娠している。そして彼が今、私の本名を呼んだ。
チャプター 1
私は、令嬢の婚約者と「お試しで寝る」という仕事を引き受けた。
狂ってるって思うでしょ?でも、妹は入院中で、母は私が生まれる前に蒸発した父の代わりに、女手一つで私たちを育ててくれた。私は新卒で、実習生に毛が生えた程度の給料しかもらっていない。他にどんな選択肢があったというのだろう?
神谷玲奈によれば、相手は親が決めた政略結婚の相手らしい。「夜の営みが下手な男とは結婚したくない」という理由で、私を雇って事前に彼を「試す」ことにしたのだ。
部屋の明かりを消してしまえば、私たちの体型はよく似ている。彼にバレるはずがなかった。
だけど、厄介なことに――私が彼と関わったのは、昨夜が初めてではなかったのだ。
半年前、玲奈は婚約者から毎日送られてくるメッセージの相手をするのが面倒になり、私に代役を押し付けた。オンライン上で「神谷玲奈」を演じる日々。それを半年も続けた結果、私は本物の彼女よりも彼のことを深く知るようになっていた。
彼は決して口数が多い方ではなかった。けれど時折、唐突に、驚くほど誠実な言葉を投げかけてくることがあった。私が何気なく「イチゴが好きだ」とこぼした時のこと。翌日、玲奈の自宅に木箱いっぱいの最高級イチゴが空輸で届いた。玲奈はそれをそっくりそのまま私に譲ってくれた。
私はそのイチゴを一つ残らず平らげながら、何度も自分に言い聞かせた。これは「玲奈」に贈られたもの。私にじゃなくて、と。
そういうわけだ。昨夜のあれは、あくまで仕事。彼女は即座に報酬を振り込み、私に「レビュー」の提出を求めてきた。
私は狭い賃貸アパートのベッドに寝転がり、口座残高のゼロの数を数えながら、これで少なくとも今月の妹の治療費は賄えるだろうと安堵していた。
そして今日、私は職場へと出社した。
「結衣、運がいいわよ」隣のデスクの浜田美咲が小声で囁いた。「結衣が入社してから、黒崎社長、一度も出社してないじゃない? 生で見ると、すっごく怖いんだから」
彼女が言い終わるか終わらないかのうちに、エレベーターのドアが静かに開いた。
星創株式会社の社長。私の雲の上の上司、黒崎司。
仕立てのいいスーツに身を包んで降りてきた彼は、一切の感情を読み取らせない無表情だった。彼が通り過ぎるたび、周囲の社員たちが「おはようございます、黒崎社長」と畏まって挨拶をする。
私は、その場で凍りついた。
嘘でしょ。
昨夜、私が抱かれた相手が、うちの社長?
私は一日中モニターに顔を隠すようにして過ごした。職場で絶対に思い出してはいけない昨夜の記憶が、頭の中で何度も脳裏をよぎる。やめて。もう考えるのはやめて。
退勤時間になり、私は手鏡でこっそりと自分の顔を確認した。分厚いレンズの眼鏡に、無造作にひっつめたポニーテール、そして完全なノーメイク。
真っ赤なワンピースを着ていた昨夜の私とは、似ても似つかない。これなら絶対にバレないはずだ。
スマホがブブッと震えた。裏垢用の端末への着信。
私はちらりと社長室に視線をやってから、メッセージを開いた。
彼からだ。「昨夜はよかった」
今まさにあの部屋で、氷のように冷たい顔をして会議の席についているはずの、あの男からだ。
私は返信を打ち込んだ。「まあまあね」
即座に返信が来る。「まあまあ?」
「次はそんな余裕、なくしてやるから」
プライベートではこんな顔を見せるんだ。面白い。
何か言い返してやろうとした矢先、さらにメッセージが届いた。
「体は大丈夫? 昨夜、少し乱暴だったかな」
指先がピタリと止まる。
普段は無口なくせに。こういう時だけ、こんなずるい言葉をかけてくる。
頭で考えるより先に、指が勝手に動いていた。「平気よ。気にしないで」
「無理するなよ」
私はスマホの画面を伏せるようにしてデスクに置いた。顔から火が出そうだった。
しっかりしなさいよ、私。彼はあれを「玲奈」に向けて言ったの。私にじゃない。
再びスマホが震えた。今度は、本物の玲奈からだった。
「緊急事態! 彼がまた会いたいって言ってきた! 同じホテルの同じ部屋で!」
「お願い、もう一回だけ代わって! ギャラは倍払うから!」
私は画面を見つめ、それから社長室へと視線を移した。
ちょうど部屋から出てきた彼が、エレベーターへと向かって歩いていくところだった。
手の震えが止まらない。
昨夜あんなに激しかったのに、今夜もまた求めるっていうの?
そして、私は――
今夜もまた、彼の元へ行かなきゃいけないの?
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かつて私に婚約破棄の書類を叩きつけた冷酷で傲慢なCEOでさえ、今や何かに取り憑かれたように私を追い回し、「もう一度だけチャンスをくれ」とすがりついてくる始末。
私を捨てて、自分たちの人生を『アップグレード』したつもり?
笑わせないで。最初から、圧倒的に上の存在だったのは私のほうよ。













