第3章

 ほんの数日の我慢だ。新しい住まいが見つかったら、すぐに出て行こう。

 私はスーツケースを片手に別荘の入り口に立ち、自分自身を奮い立たせた。

 カードキーをかざす。ゲートが開いた。

 そして、私は凍りついた。

 三階建て。床から天井まで届く大きな窓。全体が冷たい黒、白、グレーで統一されているが――そのすべてが圧倒的な財力を主張していた。

 こんな豪邸、これまでの人生で足を踏み入れたことすらない。

 足音を忍ばせて二階へ上がり、一番小さな寝室を選んだ。それでも十分に広い。私が借りていたアパート全体よりも大きい。

 クローゼットを開け、私は再び硬直した。

 ずらりと並んだブランド服。シルクのパジャマ。どれも新品で、タグがついたままだ。

 一着のサイズを確認してみる。

 私と同じサイズ。

 これらはすべて、玲奈のために用意されたものだ。

 胸の奥に、チクリと嫌なものが広がった。

 司のような男が、婚約者のために密かにこんな準備をしているなんて。

 ……私には関係のないことだ。

 シルクのパジャマを元に戻し、代わりに自分の色あせた花柄のパジャマを取り出した。着替えて、ベッドにバフッと倒れ込む。

 なんて柔らかいんだろう。

 意識が遠のきかけたその時、階下から電子音が鳴り響いた。

 私はハッと目を覚ました。

 ガレージのセンサーだ。

 裸足のまま廊下に飛び出す。リビングのセキュリティモニターには、黒いレクサスLSが入ってくる様子が映っていた。

 ドアが開き、司が降りてくる。

 ここには滅多に来ないって言ってたのに!?

 頭が真っ白になった。逃げたい、でもどこへ?ここは彼の家なのだ。

 足音。もう玄関まできている。

 役を演じ続けなければ。

 電気だ。

 私は家中の照明をすべて消して暗闇を作り出し、声を整えた。

 ドアが開く。

「司」玲奈の口調を真似て、甘い声を出した。「驚かせようと思って。嫌だった?」

 彼の足音がピタリと止まる。

「驚かせる、か」少し面白がるような響き。「確かに驚かされたよ」

 彼がこちらへ歩いてくる。

 心臓が破裂しそうだったが、私はあえて一歩踏み出し、後ろから彼に腕を回した。

「電気、つけないで」彼の背中に顔を押し当てる。「暗いほうが好きなの」

 彼は何も言わなかった。

 彼が振り返る気配がした。片手で私の顎が掬い上げられる。

「そんなに積極的なのか?」

 次の瞬間、私は彼に抱き上げられていた。

 私はしがみつき、あの馴染みのあるミントの香りを吸い込みながら、内心では恐怖で震え上がっていた。

 彼が数歩歩いたところで立ち止まった。

「今夜はパジャマを変えたのか?」

 私は全身を強張らせた。

 花柄のパジャマ。

 私の、このよれよれの花柄パジャマ。彼がクローゼットに用意していたシルクのものではない。

「適当に着ただけよ」思っていたよりも震えた声が出た。「お気に召さない?」

 沈黙。二秒。

 そして、低い笑い声。

「いや……意外と可愛いな」

 何か言い返す間もなく、私はベッドに放り投げられた。

 彼が私に覆い被さり、声を落とす。

「だが、何も着ていないほうがもっと好きだ」

 その夜の彼は、今までで一番荒々しかった。

 夜が明ける頃、彼はようやく眠りについた。私は指一本動かすのもやっとだった。

 それでも、彼が起きる前にここを出なければならない。

 重い体を引きずってベッドから抜け出すと――ナイトテーブルの上に付箋が貼られているのが見えた。

 私が置いたものではない。

 顔を近づける。

「仕事で早く出なければならない。数日は戻らない。ゆっくりくつろいでいてくれ」

 いつの間に書いたんだろう?全く気づかなかった。

 胸の奥で、何かがふっと軽くなるのを感じた。そしてそのすぐ後に、名状しがたい別の感情が湧き上がってくる。

 まあいい。

 仕事の準備をして、スマホを確認した。玲奈からのメッセージ。

「結衣、私決めたわ。司との婚約、破棄する!」

「本当の愛を見つけたの!彼こそが私の運命の人よ!」

「帰国したら、彼にそう伝えるわ!」

 私は画面を凝視した。

 婚約破棄。

 じゃあ、私はこのまま偽物を演じ続けるの?

 胸にぽっかりと穴が開いたような虚無感を覚えた。たぶん、お金のせいだ。この仕事がなくなれば、妹の治療費がまた払えなくなってしまう。

 考えをまとめる間もなく、別のメッセージが届いた。

 会社のグループチャットだ。

「本日の定期健診のご案内です。お時間になりましたら会場へお越しください」

 定期健診。

 その時、ふと気づいた。

 今月、生理が遅れている。

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