第3章

 沙苗が悲鳴を上げ、咄嗟に口を押さえた。

「この一発はね、あんたの薄っぺらい偽善と反吐の出る芝居に対するものよ。私の本気を踏み台にした罰」

 声は氷みたいに冷たかった。

「剣介……自分が何様のつもり? 広瀬家が後ろ盾になってやってたから、あんたは新堀家で息ができてただけ。私がいなきゃ、何の価値もないくせに。沙苗を守ってる俺カッコいい、とでも思ってた? あんたたち、腐った魚に腐ったエビで、最初からお似合いなのよ」

「お……お前、俺を殴ったのか? しかも、知って……っ」剣介がようやく状況を飲み込み、瞳の奥に動揺が走る。

「今すぐ、その腐ったエビ連れて――私の家から消えなさい」

「舞子! 絶対に後悔するぞ!」剣介は癇癪みたいに喚き散らし、沙苗の腕を掴んだまま、みっともなく部屋から逃げ出した。

 二人が敗走していく背中を見送ってから、私はドアのそばへ歩き、電子ロックのパネルを操作する。

 剣介の指紋を削除。玄関の暗証番号も変更。

「ピ――」と長い電子音が鳴り、変更完了の表示が出た。彼に紐づく痕跡は、これで完全に消えた。

 その夜、剣介から十数件の着信が入った。画面で点滅する名前を見下ろし、全部拒否してから、連絡先をまとめてブロックする。

 世界が、ようやく静かになった。

 それからの一か月、私はUSCの入学準備に全てを注ぎ込んだ。建築デザインのポートフォリオを作り直し、USCの著名な教授にも前もって連絡を入れた。

 その間に耳に入ってきたのは、剣介が界隈で好き放題に噂をばら撒いているという話だ。沙苗に嫉妬した私が彼を殴り、家出して拗ねている――そんな筋書きらしい。しかも、T大の入学日には私が泣きながら謝りに行く、と確信しているのだとか。

 聞いた私は、鼻で笑っただけ。

 9月1日。USCの新入生オリエンテーションの日。

 私はスーツケースを引き、たった一人でロサンゼルス行きの便に乗り込んだ。機体が雲の上へ突き抜けた瞬間、窓の外で小さくなっていく街を見ながら、胸の内でそっと言う。

 さよなら、クズ。

――――――――――――――――――

 ロサンゼルスの空気には、湿り気を含んだ塩の匂いが混じっていて、東京とはまるで違った。

 USCは全米屈指の名門だ。蔦の絡まる赤レンガの校舎には、百年の積み重ねが嫌というほど滲んでいる。私はスーツケースを引きながら並木道を歩き、久しぶりの自由と軽さを肺いっぱいに吸い込んだ。

 入学手続きを済ませると、専門書を腕いっぱいに抱えて建築学部の図書館へ向かう。席取りも兼ねて、早めに陣取るつもりだった。

 図書館前の階段に差しかかったところで、正面から数人のスーツ姿が歩いてきた。中心を歩く男は背が高く、姿勢も真っ直ぐ。仕立てのいい漆黒のスーツがやけに映えていて、所作の端々に「上に立つ者」の圧がある。

 彼は少しだけ顎を引き、隣の白髪の教授の話を聞いていた。横顔の輪郭は大理石の彫刻みたいに冷たく、くっきりとしている。

 私は脇へ避けた。けれど、抱えていた本が重すぎたのか、一番上の一冊がつるりと滑り落ち、男の足元へ転がった。

 男が足を止める。

「すみません」私は慌ててしゃがみ、拾おうとする。

 その前に、骨ばった指の整った手が本を取り上げた。

 私はその手を目で追って顔を上げ――底冷えするように深い瞳と、真正面からぶつかった。

「広瀬舞子?」

 低く、磁力みたいに耳に絡む声。そこに、ほんのわずかな愉しげな色が混じる。

 私は固まった。……私を知ってる?

 男の顔を改めて見つめ、記憶を一気に掘り返す。数秒後、ひとつの名前が脳内で弾けた。

 早坂圭也。

 東京の新堀家、その正統な当主。剣介の異母兄で、母方の姓を名乗っている。

 剣介が、新堀家の表に出られず父親に媚びて小遣いを得るだけの「影」だとするなら、圭也は新堀家の「王」だった。十八で家の周縁事業を引き継ぎ、二十五で新堀グループの版図を倍に広げた。東京の商いの世界では、冷徹で容赦がないと名の通った男。

「……早坂さん?」私は少し迷いながら口にする。両家に取引はあっても、彼と会ったのは数年前、年長者の祝いの席で一度きりだったはずだ。

 圭也は本を差し出し、私の顔を二秒ほど見据えた。

「USCに一人で? 確か君の父親は、T大に進むと言っていたが」

 「T大」という言葉に、視界が一瞬だけ暗くなる。けれどすぐに平静を貼り直した。

「途中で変えました。建築ならUSCのほうが私に合うので」

 隣の老教授が、にこにこと口を挟む。

「圭也、君はうちの首席を知っていたのかい? この子は逸材だよ。ポートフォリオを見たが、光るものがある」

 圭也がわずかに眉を上げ、口元にごく淡い弧を描いた。

「広瀬家の令嬢だ。優秀なのは当然だろう。だがT大を捨ててロサンゼルスとは……少し意外だな」

 含みのある言い方。でも、まだ親しくもない相手に、私生活を解体して見せる気はなかった。

「お言葉、恐縮です。用があるので、失礼します」

 礼儀として頭を下げ、本を受け取って図書館へ入る。

 背中に、ひどく侵略的な視線が貼りついている気がした。私の歩幅に合わせて、ずっと追ってくるような――。

 後で知ったことだけれど、圭也は新堀グループの社長であると同時に、USC建築学部最大の個人スポンサーでもあった。今回は特別招待のゲストとして、新実験棟の建設進捗を視察しに来ていたらしい。

 USCでの生活は忙しく、それでも充実していた。私は図面と模型に全力でのめり込み、剣介にまつわる吐き気のする記憶は、意識の底に鍵を掛けて押し込めた。

 ――それが揺れたのは、開学二日目の夕暮れ。

 製図室を出て食堂へ向かおうとしたとき、スマホがけたたましく震えた。

 表示されたのは、見知らぬ東京の番号。

 一瞬ためらってから、私は通話ボタンを押す。

「舞子! お前いったいどこにいるんだ?! なんでT大の受付で俺を待ってないんだよ?!」

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