彼の子犬から、兄のダイヤモンドへ

彼の子犬から、兄のダイヤモンドへ

渡り雨 · 完結 · 16.2k 文字

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紹介

物心ついた頃からの幼馴染である新堀剣介(にいぼり けんすけ)と一緒にいるため、私はトップレベルの難関大学を諦め、彼と同じ平凡な大学に進学する約束をした。

願書提出の最終日。私は手作りのスープを入れた保温ボトルを手に、彼がいる美術室へと向かった。

だが、そのドアの向こうから、彼が友人たちに自慢げに言い放つ声が聞こえてきたのだ。

「広瀬舞子なんて犬みたいなもんだよ。俺と一緒にT大に行こうって言ったら、あっさり志望校を変えやがった。沙苗(さなえ)は成績がギリギリだからさ、舞子があの全額奨学金の枠を辞退すれば、沙苗が確実に入れるだろ? どうせ舞子は俺にベタ惚れだから、後でバレたとしても、尻尾を振って大人しく引き下がるに決まってるさ」

その瞬間――手に握っていた熱々の保温ボトルが、まるで氷のように冷え切った気がした。

チャプター 1

 画室の扉は半分だけ開いていて、中から男子たちの遠慮のない笑い声が漏れてくる。鼻を突くほど濃い煙草の匂いまで混じっていた。

「剣介、お前えげつないな。舞子ってうちの高校じゃ有名な建築の天才だろ。お前のために、USCの看板学部すら蹴ったって? ちょっと口先で言っただけで、志望をT大に変えさせたのかよ」

 そう言ったのは、剣介の悪友の佐藤。面白がって見物しているような調子だった。

 剣介はイーゼルの前に座り、鉛筆を指先でくるくる回しながら、どうでもよさそうに言い放つ。

「アイツ、昔から俺の後ろをついて回ってたし。俺が東って言えば、西には行かねえよ。ていうか成績いいんだから、どこで学んでも一緒だろ? T大で俺と一緒にいればいい。沙苗は身体弱いのに、散々つらい思いもしてきたんだ。全額の奨学金枠なんて、もともと沙苗のものだろ」

「でもさ剣介、舞子があとでお前に騙されたって気づいたらどうすんの?」

 別の男子が口を挟む。

 剣介は鼻で笑った。

「気づいたら何だよ。アイツ俺なしじゃ無理だし、適当に甘いこと言えば終わりだろ。『同じ大学に行きたい』って言っときゃ、また言うこと聞く。お前ら分かってねえな。こういうのは――握ってんだよ」

 扉の外に立ったまま、その会話を聞いているうちに、周りの空気が一寸ずつ凍りついていく気がした。

 これが、幼いころから守り続けてきた人。彼のために親と大喧嘩までした、幼なじみ。

 剣介は隠し子で、新堀家では子どものころから肩身が狭かった。私はその境遇が痛々しくて、何かにつけて庇った。いい環境も、まっすぐな気持ちも、全部彼の前に差し出した。黒野沙苗は今学期に来た転校生で、いつも目を赤くして剣介の後ろをついて回り、家が貧しくていじめられるのだと訴えていた。

 剣介は自分のくだらない「守ってやる」欲を満たすためか、私を放って沙苗の世話ばかり焼くようになった。問い詰めたこともある。けれど彼は、ひどく失望した目で私を見て言った。私が分からず屋になったのだと。沙苗は可哀想なのに、私は何でも持っているのだと。

 ――そうか。

 剣介にとって、私の献身はただの自慢の材料だった。「嬉しそうにくっついてくる」都合のいい存在。挙げ句、沙苗のために、私の将来まで騙して捨てさせようとした。

 心臓を、見えない手でぎゅっと握り潰されたみたいに苦しい。息が詰まるような鈍い痛み。けれどそれは数秒しか続かなかった。

 次に胸を満たしたのは、妙に澄んだ冷たさだった。

 手の中には、三時間かけて煮込んだスープ。急にそれが、信じられないほど馬鹿らしく見えた。私は扉を開けて怒鳴り込まない。取り乱して問い詰めもしない。

 だって、腐った人間に理屈をぶつけたところで、自分の品位が削れるだけだ。

 踵を返し、廊下の突き当たりのゴミ箱へ。手を離す。

 鈍い音がして、保温ボトルが、熱いスープごと中へ落ちた。

 スマホを取り出し、私はすぐにCommon Applicationにログインした。締め切りまで残り二時間。

 指が画面を走る。パスワードを変更して、志望先を入力する。

 USC、University of Southern California。

 アメリカ屈指の建築学府。私が最初に抱いた夢の場所。

 剣介が「舞子は俺のためなら全部捨てる」と本気で思っているなら、見せてあげる。彼がいなくても、私はどこまでだって飛べる。

 送信を確定すると、システムが変更完了を告げた。

 全部終えた瞬間、長く息を吐いた。身体がふっと軽い。胸に溜まっていた悔しさも、未練も、盲目な愛情も、この一瞬で消えていった。

 画面が光る。剣介からのメッセージ。

【舞子、スープまだ? 図面やってたら胃が痛い】

 その文面を見て、口元が皮肉に歪む。

【捨てた。胃薬は自分で買って】

 送信。すぐにマナーモードへ切り替え、私はそのまま校舎を出た。

 夏の陽射しは眩しく、熱い。光に向かって歩き、あの画室を振り返ることは二度となかった。

 それから数日、私は異様なほど静かだった。誰にも志望先のことは言わず、黙々と荷物をまとめ、卒業に必要な手続きを進めた。

 剣介は私の冷たさに気づいているはずなのに、きっと「拗ねてるだけ」だと思っている。彼の中では、広瀬舞子が本気で自分から離れるはずがないのだから。

 三日目の午後。部屋で本を整理していると、突然ドアが押し開けられた。

 剣介が大股で入ってくる。怯えたように沙苗がその後ろに続いていた。

「舞子、お前さ、何のつもりで拗ねてんだよ。この数日、返事もしないし電話も出ないし。俺、すげー心配してたんだけど?」

 剣介は入るなり、責め立てる顔を作った。眉間に皺。まるで自分が被害者だと言わんばかりに。

 私は顔も上げず、本を段ボールへ詰める手を止めない。

「出て。ここ、私の部屋だから」

「舞子、剣介のこと、そんなに怒らないで」

 沙苗が剣介の背後から半身だけ覗かせる。目尻が赤くて、声は風が触れただけで折れそうに弱い。

「全部、私が悪いんです。私の復習を見てくれてたから、剣介は舞子さんを構えなくて……。お願い、私のせいで二人の仲が悪くならないで。もうすぐ一緒にT大に行くんだし、みんな仲良くできたらいいのに」

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