第2章
慌てて首を横に振った。
「怒ってなんかないよ。弘武おじさんが幸せになるなら、私はうれしい。愛し合う人同士が結ばれるのは、いいことだし」
弘武は私をじっと見据えた。瞳の奥の色は読めない。けれど、その表情は――どう見ても私の答えに納得していない。
次の瞬間、彼の手が伸びてきて、私の手首を掴んだ。
「彩未、おまえ……いったい何の芝居だ? 十八の誕生日のパーティーで、皆の前で俺に告白しただろ。忘れたと思ってるのか。この家の連中は全員知ってる。おまえが俺を好きだってな。なのに今さら、清廉ぶった顔で冷たく突き放して……俺の気を引きたいだけか?」
唾を吐き捨てるみたいに、言い切る。
「言っておくが、そんな下手な小細工は反吐が出る」
その一言が、記憶の扉を乱暴にこじ開けた。
――ずっと昔のこと。
両親は、ヤクザ同士の抗争に巻き込まれて命を落とした。引き取ろうとする人間など、どこにもいなかった。厄介事を抱えた孤児なんて、誰だって避ける。
そんな私を、父の生前の親友だった米津弘武が、迷いなく家に連れ帰ってくれたのだ。
あの頃の彼は、私を抱き上げて屋敷のバルコニーに立ち、遠くの、灯りできらめく街を指さして言った。
「見えるか、彩未。いつか――あれは全部、おまえへの贈り物になる」
雷雨の夜には部屋に来て、震える私を宥めてくれた。出張から戻るたび、選び抜いた土産を手渡してくれた。
あの頃の私は、間違いなく彼の掌の上の宝物だった。
そんな男を、好きにならずにいられるわけがない。
十八の誕生日。祝宴の席で、私は招かれた客の前で彼に想いを告げた。
その瞬間、弘武の顔に走ったのは――怯え。そして、耐えがたい困惑。
それ以降、掌の上で守ってくれたあの男は消えた。
代わりに彼は、次々と女を屋敷に連れ込むようになった。誰もが、私に見せつけるためにいるみたいだった。
前の私は、信じていた。諦めずに追い続ければ、いつか振り向いてくれると。
でも、最後に手に入ったのは――死だけ。
そこまで思い出して、私は自分が可笑しくなった。自嘲の笑いを喉の奥で噛み殺し、静かに彼を見返す。
「ごめんなさい、弘武おじさん。今まで、たくさんご迷惑をおかけしました。でも安心して。私は何も企んでない。ただ、自分の立場がようやく分かっただけ。これからは二度と、あなたに縋りついたりしない」
弘武は、波ひとつない私の目を見て――ほんの一瞬、心臓を針で刺されたみたいに顔を強張らせた。
言いようのない不安が、胸の底からせり上がってくる。
反射的に、掴んでいた手首がほどけた。
……これが、彼の望んでいたことのはずだ。
ずっと、現実を見ろ、もう俺に構うな、と。私がそれを受け入れたなら、喜ぶべきじゃないのか。
なのに、どうして。胸の奥がざわついて、落ち着かない?
「……言った以上、守れよ」
ぶっきらぼうに吐き捨て、弘武は背を向けた。乱暴に扉を閉める音が、屋敷に響く。
彼が去ったあと、私は大きく息を吸った。
――出て行く準備を始めよう。
前の私は、彼に執着するあまり、憧れていた大学への留学を捨てた。二度と同じ過ちは繰り返さない。
パソコンを開き、あの頃の指導教官に改めてメールを送る。三十分もしないうちに返信が来た。
「Welcome back, AYA. We've been waiting for you.」
私はすぐに家を出て、ビザの手続きへ向かった。
すべてを済ませて屋敷に戻った頃には、空はもう夕暮れ色だった。
玄関を抜けてリビングに足を踏み入れた瞬間、私は立ち尽くした。
――絨毯が、ない。
「彩未、帰ってきたのね」
階段を下りてきた涼夏が、勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「あの絨毯、私あんまり好きじゃなかったの。色が暗いし。だから燃やさせたのよ。文句、ないわよね?」
あの絨毯は、私が七歳でこの屋敷に来たとき、弘武がわざわざ選んでくれたものだった。
幼い私は、よく彼の手を引いて絨毯の上に座らせ、玩具で遊んだ。どれほど忙しくても、弘武は困った顔をしながら付き合ってくれた。
あそこには、いちばん近かった時間が残っていた。
「彩未」
ソファに座っていた弘武が、私が答えないのを見て口を開く。
「俺が許可した。涼夏を刺激するな。あいつはいま、落ち着ける環境が必要なんだ」
私はその場に立ったまま、がらんとした床を見つめた。
思い出も、温もりも――火で焼かれて、何も残らない。
それなのに、不思議と胸は痛まなかった。
「ちょうど、あの絨毯も古くなってましたし」
淡々と告げる。
「燃やしたなら燃やしたで、いいんじゃないですか。むしろ、すっきりして」
弘武が息を呑んだ。顔色がみるみる悪くなる。
「……何を言ってる」
声の端に、怒りが滲む。
私は平然と彼を見た。
「弘武おじさんが許したんでしょう? 私に異論はありません。それに涼夏さんの言う通り、色も少し暗かった。新しいのに替えるのもいいと思います」
弘武は私を睨みつけ、胸が大きく上下する。言いたいことがあるのに、言葉が出てこない――そんな顔。
結局、苛立ちに任せて立ち上がり、大股で書斎へ向かった。扉がまた、重く叩きつけられる。
それから半月。屋敷は上から下まで、忙しさと浮かれた空気に包まれた。
米津弘武が結婚する。
相手は淡島涼夏。しかも、数日前に妊娠が分かったらしい。
跡継ぎを切望していたヤクザの組長にとって、それは天にも昇る吉報だ。
弘武は涼夏の存在を誇示するかのように、街で最上級のホテルを丸ごと押さえ、「世紀の結婚式」を挙げる準備を始めた。
招待されるのは、ヤクザの大物に政財界の名士まで。警備だけで三百人以上を動かしたという話もある。屋敷中が、その一日に向けて慌ただしく動いていた。
私はというと、なるべく二人と顔を合わせないようにしていた。出て行く前に余計な火種を増やしたくない。
ビザは下りた。入学の手続きも終えた。航空券も手配済み。
結婚式の当日、私はこの屋敷を出る。
青春のすべてを過ごした場所から。今度こそ、自分の人生のために。
