第2章
あいにく、私には専門的な訓練を受けた経験など皆無だった。
岩壁を降り始めて五分も経たないうちに両腕は震え出し、指先はホールドを掴む力を失いかけていた。足もガクガクと震え、ほんの数センチ下へ移動するだけで己の命を削り取られているかのような錯覚に陥る。
さらに絶望的なことに、山肌を揺るがす振動が徐々に激しさを増してきていた。
二次雪崩が来る——それも、私が予想していたよりもずっと早いタイミングで。
私は奥歯を噛み締め、必死に下へと向かった。前世で何度もこの場所を訪れていたため、どうすれば生き延びられるかという明確なビジョンはあった。崖は険しいが、地面まではそう遠くない。下まで降りきって少し歩けば、小さな洞窟が見えてくるはずだ。
あそこに身を潜めて致命的な雪崩さえやり過ごせれば、まだ希望はある。
数分後、私の体は完全に言うことを聞かなくなり、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。だが、眼下には雪面が見え始めている。
もう少しだ。
その瞬間——山全体が大きく揺れた。
ホールドから指が外れ、体がふっと宙に浮く。頭の中が真っ白になった。ああ、終わった。今度こそ本当に死ぬんだ。
次の瞬間、何かに体が引っ掛かり、背中に激痛が走った。荒い息を吐きながら目を開けると、太い木の枝に宙吊りになっている自分がいた。服のあちこちが引き裂かれている。
頭上から、雪崩の地鳴りが迫ってきた。
痛みなど構っていられなかった。枝から地面へと転げ落ち、ふらつく足で洞窟に向かって駆けた。
洞窟に飛び込んだ瞬間、背後で凄まじい轟音が響き渡った。振り返ると、山頂から雪の濁流がなだれ落ち、岩壁を飲み込みながら麓へと突き進んでいくのが見えた。
もし前世の登美子のように自力で助かろうとしなければ、今頃とっくに雪の下に埋もれていたに違いない。
氷のように冷たい岩壁に背を預け、自然の猛威が外で荒れ狂うのを見つめる。激しい心悸が落ち着いてくるのと引き換えに、今度は骨の髄まで凍りつくような寒さが襲ってきた。
逃げる途中で服が何箇所も破れており、そこから容赦なく冷たい風が入り込んでくる。
今はもう、救助を待つしかない。果たして彼らが来てくれるかは分からないけれど。
両腕を抱え込んでも、歯の根が合わずにガチガチと鳴る。このままここで凍え死ぬのだろうか——そう思い始めた時、遠くから微かにエンジンの音が聞こえてきた。
車だ!
這うようにして立ち上がり、洞窟の入り口へ飛び出して必死に手を振った。
「助けて! ここに人がいます!」
情けないほど弱々しい声は、吹雪に完全に飲み込まれてしまう。視界の先を通り過ぎていくオフロード車を見送りながら、絶望感が胸に押し寄せた。
それでも、私は諦めなかった。
「お願い、止まって。助けて……」
奇跡的に、車が止まった。後部座席から一つの人影が飛び出し、懐中電灯の光がこちらを照らし出す。
私に気づいてくれた。
助かったんだ。
その男性は駆け寄ってきて、私がその場に崩れ落ちる寸前で体を支え、抱え込むようにして車に乗せてくれた。
「怪我をしているのか? 歩けるか」
落ち着いた、温かみのある声だった。
「はい」
私は歯を食いしばって答えた。
彼は傍らから毛布を取り出し、私を包み込むようにそっと掛けてくれた。
その温もりに包まれた瞬間、張り詰めていた糸がふっつりと切れた。目を閉じると、急速に意識が遠のいていく。
再び目を開けると、車は揺れながら山道を走っていた。
すぐそばで交わされるひそひそとした会話が耳に入り、運転席にもう一人いることに気がついた。首を巡らせると、隣に座る彼の横顔が見えた。くっきりとした輪郭に、どこか安心感を抱かせる落ち着いた目元をしている。
私が目覚めたことに気づくと、彼は運転手との会話を止め、袋からエネルギーバーとチョコレートを取り出して手渡してくれた。
「具合はどうだ?」
「大丈夫です」
食べ物を受け取り、まだ少し掠れた声で礼を言う。
「ありがとうございます」
彼は頷いた。
「俺たちも近くで登山をしていてね。雪崩が見えたから駆けつけたんだ。一回り探したが、見つかったのは君一人だけだった」
「もうすぐ麓に着く。まずは少し食べておきなさい。後で傷の手当てをしてやるから。山の環境は過酷だ、感染症を甘く見ちゃいけない」
私はこくりと頷き、食べるペースを上げた。
食べ終えるのを見計らい、彼は救急箱を開けると、手慣れた優しい手つきで私の腕や足の擦り傷を消毒し始めた。
ヨードチンキを塗られた時は少し染みたが、彼の手はぶれることなく、繊細で優しい気遣いが感じられた。
真剣なその横顔を見つめているうち、私の胸に急に切なさが込み上げてきた。
こんな優しさに触れたのは、一体いつ以来だろう。
記憶が、抑えきれないまま前世へと引き戻されていく。
それは百回目であり、そして最後となった、あの鳥籠から逃げ出そうとした時のこと。
◇
「敬明、離婚しましょう」
リビングに立ち、私は前もって用意していた離婚届を指が白くなるほど強く握りしめていた。
彼は顔を上げた。その眼差しは恐ろしいほど冷え切っていた。
「なんだと?」
「離婚してと言っているの」
私は大きく深呼吸をした。
「この十年間、もう十分苦しんだわ。あなたが私を憎んでいるように、私も辛かった。もう、お互いを解放してもいいじゃない」
突然、彼はふっと笑い声を漏らした。その笑顔に、全身の血の気が引いていく。
次の瞬間、彼はローテーブルを激しく蹴り飛ばした。
ガラスが粉々に砕け散る音が、鼓膜を劈くように響く。
「離婚だと?」
彼は一歩ずつ私に詰め寄ってきた。
「瑠理香、忘れたとは言わせないぞ。登美子が死んだのはお前のせいだ」
私の手首を乱暴に掴み、壁に向かって勢いよく投げ飛ばす。背中が硬い壁に激突し、激しい痛みに立っていることすらままならない。
「死ぬべきだったのはお前の方だ」
私の前に立ち、見下ろすように冷酷な言葉を放つ。
「一生、離婚などできると思うな。俺はお前を道連れにして、死ぬまで登美子への罪を償わせてやる」
私は顔を上げ、かつて愛した男を絶望的な思いで見上げた。
彼の瞳には、どす黒い憎悪と狂気しか映っていなかった。
「二人きりだと思っていたのは私の方よ」
掠れた声で、私は言葉を絞り出した。
「私に内緒で登美子を連れてきたのも、彼女をあんな危険な場所に連れ出したのも、全部あなたじゃない。それを今になって全部私のせいにするなんて……敬明、滑稽だと思わないの?」
