第2章

 翌朝、私はオフィスの受付で呼び止められた。

「ヒバリさん、大量の荷物が届いてますよ」彼女は声を潜めた。

「すごく高そうなやつ」

 会議室の長机には、所狭しとギフトボックスが並べられていた。建築写真集にクリスタルのグラス、ヴィンテージワイン。タグには『敬愛する恩師へ』と記されている。

 スマートフォンが震えた。

 覚からのメッセージだ。

『ヒバリ、教授の電話がずっと繋がらない。引っ越したのか? それともどこかの老人ホームにでも入った? マンションのチャイムを鳴らしても反応がない』

 老人ホーム、か。私は思わず失笑しそうになった。

 彼は本気で思っているのだ。鎌田徹郎はただ引退し、風光明媚な土地で茶を飲みながら読書でもして、自慢の教え子が故郷に錦を飾り、謝罪に訪れるのを待っているのだと。

 あの番号は、五年前に繋がらなくなった。土砂降りの夜、救急救命室の廊下で、私が死亡届にサインをした、あの瞬間に。

 私は返信をせず、そのまま彼のアカウントをブロックした。

「ヒバリ?」

 吉廣が会議室に入ってくるなり、山積みの贈り物を目にして眉をひそめる。

「誰からだ?」

「どうでもいい人から」

 私は彼が差し出したスープを受け取った。花澤吉廣、私の夫だ。この五年間、もし彼がいなかったら、私はとっくに先生の後を追っていただろう。

 吉廣は、礼状の名前を一瞥した。

「野島覚か。帰国していたのか?」

 彼はすべての事情を知っている。あの日、病院で、事後処理の一切に付き添ってくれたのは彼だった。

「ええ」スープは熱かったが、私にはその温度すら感じられなかった。

「彼は、教授に会いたがってる」

「知らないのか?」

「教授がただ引退して隠居したか、あるいはどこかの高級ケアハウスで優雅な晩年を過ごしていると思ってるのよ」

 言い終わるのが早いか、会議室のドアが乱暴に開かれた。

 入り口には覚が立っている。仕立ての良いスーツに身を包み、露骨に苛立ちを浮かべていた。

「ヒバリ、なぜブロックした?」彼は大股で室内に踏み込み、吉廣の存在など目に入らない様子で捲し立てる。

「俺はただ教授に会って、直接謝罪したいだけだ。由紀子の父親が当時やったことは確かに間違っていた。だが俺はもう独立したんだ。教授の汚名を注ぐことだってできる。俺にはリソースも人脈もある……」

 彼の言葉が、唐突に途切れた。

 吉廣が私にスープを差し出す動作、そして、私の左手の薬指に光る指輪を目にしたからだ。

「そいつは誰だ?」

 覚の声色が、危険な響きを帯びる。

 吉廣はスプーンを置き、静かに立ち上がった。

「ヒバリの夫、花澤吉廣です」彼は右手を差し出し、穏やかな口調で告げる。

「野島さん、ここはオフィスです。大声を出すのは控えていただけますか」

「夫、だと?」

 覚は私の指輪を凝視した。

「ヒバリ、結婚したのか? 俺たちが別れてまだたったの五年だぞ……よくもそんなことが……」

 言葉こそ続かなかったが、言わんとすることは明白だった。

 彼の中での私は、まだあの場所に留まり、彼を待ち続けているはずの存在なのだ。彼が成功を収め、あの『複雑なしがらみ』を清算し、「やり直そう」と言いに戻ってくるのを、ひたすらに待っているはずだと。

「五年が、短いとでも?」私は立ち上がり、彼を真っ向から見据えた。

「覚。五年あれば、一人の人間が死ぬには十分よ。別の人間が生まれ変わるのにも、そして――ある種の負債をきれいに清算するのにも、十分すぎる時間だわ」

 彼は大きく息を吸い込んだ。

「いいだろう。百歩譲って、君のことは置いておく」彼は手にした書類封筒を掲げてみせた。

「教授の居場所を教えろ。俺は、あのコンペを勝ち取ったんだ――メトロポリタン・カルチャーセンター。教授が当時、一番やりたがっていたあのプロジェクトだ! 俺はこのニュースを、直接教授に伝えたいんだよ!」

 あのプロジェクト。

 鎌田徹郎が生涯をかけた悲願。

 彼は病床で、震える手を使って何度もあのドームの曲線を描き続け、今際の際にさえ『完成した姿を見られたらよかったのだが』と譫言のように呟いていた。

 目頭が熱くなるのを感じたが、涙だけは零さなかった。

「貴方を、先生には会わせない」

「どうしてだ!」覚はほとんど怒鳴るように声を張り上げた。

「ヒバリ、君がまだ怒っているのはわかる。だが、これは教授の夢だったんだぞ! 先生なら俺を許してくれるはずだ。いつだって俺のことを一番に目をかけてくれていたんだから……」

「もう、いい」私は彼の言葉を遮った。その声は、氷のように冷え切っていた。

「野島覚。これ以上、先生の眠りを妨げることは許さない。――お引き取りを」

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