第2章

寝室に戻ると、林田知音は扉にもたれかかったまま、声もなく涙をこぼした。

こんなふうに静かで、ただ寂しいだけの夜を、彼女はもういくつ数えてきたのか、自分でもわからない。

もしかしたら、こんな空虚な毎日なんて、もう終わりにしたほうがいいのかもしれない。

けれど、らいちゃんの顔が浮かぶ。まだ四つの、あの小さな子のことを思うと、胸の奥がまた激しくかき乱された。

翌朝。

ろくに眠れもしないまま、外の慌ただしい、どこか苛立ちまで滲んだ物音に起こされた。頭が割れそうに痛い。起き上がろうとしたそのとき、扉がどんどんと乱暴に叩かれ、次の瞬間には押し開けられた。

「林田知音、昨日、雨芽の食事に何を入れた?」

「え……?」

唐突な問いに、林田知音は目を瞬かせる。「どういうこと?」

「雨芽が一晩中ずっと具合悪くて、吐いて下して、今は病院に運ばれた。早く着替えて来てくれ。料理を作ったのは君だろう。何を入れたのか、医者にきちんと説明してほしい」

目黒雲月は額に汗をにじませ、切羽詰まった顔をしている。

林田知音は拳をぎゅっと握った。

「昨夜の料理は、あの人から渡されたレシピどおりに、きっちり作ったわ。私は今とても疲れてるし、体調もよくないの。病院には行けない」

背を向けかけていた目黒雲月の動きがぴたりと止まる。

ゆっくり振り返った彼は、信じられないものを見るような目で彼女を見た。

「……今、何て言った?」

林田知音は顎を上げ、まっすぐその視線を受け止める。

「聞こえたでしょう。本当にもう一度言わせる気?」

目黒雲月は深く息を吸った。怒りを押し殺すのに、よほど力がいったのだろう。

「林田知音、命に関わることなんだ。君を責めてるわけじゃない。ただ、料理を作ったのは君だから、病院で医者にちゃんと説明してほしいだけだ。それがわかれば、適切な処置もできる」

「目黒雲月、忙しいのはあなただけじゃないの。この世界は、あなたと野呂雨芽を中心に回ってるわけじゃないわ」

「林田知音!」

怒鳴り声が、朝起きたばかりの目黒らいをびくっと震わせた。

スリッパを引きずるようにして現れた幼い子は、顔を赤くして言い争う父と母を、呆然と見上げる。小さな顔に、たちまち不安の色が広がった。

「……ママ」

そのやわらかな呼びかけひとつで、目黒雲月も林田知音も、張りつめていた空気を一瞬で引っ込めた。

「パパとママ、けんかしてるの……?」

四歳の子どもにしては、あまりにも多くの感情をもう理解してしまっている。

それに目黒らいは、同い年の子よりずっと聡く、勘のいい子だった。

林田知音は息を整え、無理に薄く笑ってみせる。

「してないわ。ただ――」

「らいちゃん、雨芽おばさんの具合が悪いんだ。パパ、これから病院へ行く。今日は運転手さんに幼稚園まで送ってもらいなさい。いい子にしてるんだよ」

「おばさん、また具合悪いの? じゃあ、ぼくも会いに行く! パパ、いっしょに連れてって!」

「らいちゃん、雨芽おばさんは病気なの。行ってもどうにもならないし、今日は幼稚園もお休みの連絡をしてないでしょう」

林田知音は拳をわずかに握りしめ、できるだけ穏やかな声で言った。

だが次の瞬間、目黒雲月があっさりと、

「いいよ。パパが連れていく」

そう言ったことで、林田知音は自分がひどく馬鹿らしくなった。

「ママ、雨芽おばさん、ぼくのこと好きだもん。ぼくも雨芽おばさん好き。ぼくが行ったら、きっと元気になるよ!」

無垢な子どもの言葉に、林田知音は返す言葉を失う。

目黒雲月を見上げても、彼は彼女を一瞥もしないまま、目黒らいを抱き上げて階下へ向かった。

目の前がくらりと暗くなる。

体がぐらつき、林田知音は扉の枠に手をついて、どうにか倒れずに済んだ。目を閉じてひとつ息を吸い、それから口を開く。

「……私も行くわ。肌寒くなってきたし、らいちゃんの上着を持っていく」

————

病院。

野呂雨芽の病室の前まで来たところで、林田知音はもう後悔していた。

適当な口実をつけて立ち去ろうとしたものの、目黒雲月には見透かされ、手首をつかまれる。

林田知音は眉を寄せた。

「中にはあの人のご両親もいるのよ。二人がどんな人たちか、あなたも知ってるでしょう――」

「大丈夫だ。きちんと説明すればいい」

目黒雲月が握ったその手は、大きくて、温かかった。

胸がどくりと揺れる。

彼がこんなふうに自分の手を取ったのは、いったいいつ以来だろう。

――ああ、そうだ。

あの日。

大勢の報道陣の前で、彼は彼女の手を握り、高らかに言ったのだ。

「林田知音は僕の婚約者です。結婚式は一か月後に行います」

あの瞬間、歓喜で心臓が胸を突き破ってしまいそうだった。

目にあふれる恋情を、隠すことなどできなかった。

けれどそのときの彼女は、思いもしなかった。

その後の五年間、自分がようやく手に入れたはずのこの結婚に、息もできないほど縛られることになるなんて。

病室の扉が開く。

目黒らいは甘えるような声を弾ませて、野呂雨芽のベッドへ駆け寄った。

「雨芽おばさん、もうよくなった? パパが、また具合悪いって言ってた! みんな心配してるよ。ママも来たんだ!」

野呂雨芽はとっくに見ていた。

目黒雲月と並んで入ってきた林田知音を。そして、その二人のつながれた手を。

目に刺さるほど不快だったはずなのに、表向きには弱々しく、無理に作った笑みを浮かべる。

「知音も来てくれたのね。ずいぶん会ってなかったわ」

「朝、雲月から聞いたの。食あたりみたいだって。もう大丈夫なの?」

林田知音は淡々とそう言った。

「大丈夫ですって?」

声を張り上げたのは、野呂雨芽の母親だった。「ずいぶん軽く言ってくれるのね。申し訳ないって気持ちが、これっぽっちも感じられないわ。雲月さん、伝えてないんですか? 雨芽が苦しんだのは、昨日この人が作った夕食を食べたせいだって!」

そう叫ぶや、彼女は二歩で林田知音の前まで詰め寄った。ぽろぽろと涙をこぼしながら、言葉をたたみかける。

「林田知音、あなたは聡明で気立てもいいって、みんなそう言っていたわ。雨芽だって、いつもあなたのことを褒めていたのよ。病気になってからは何を出してもろくに食べられなくなって、あんなに痩せてしまって……それでもあなたの作る料理だけは食べたがった。この三か月、私たちだって、あなたがしてくれたことに感謝してきたのよ。でも、今になって思えば……ぞっとするわ!」

「おばさん、この件は、知音がわざとやったわけじゃありません」

野呂雨芽の母が何を言い出すか察したのだろう。目黒雲月があわてて口を挟んだ。

「わざとじゃない?」

野呂母の声がさらに鋭くなる。「雨芽がえびにアレルギーがあるって、知らないはずないでしょう。それなのにサラダにあんなにたくさんのえびペーストを入れて! 林田知音、なんて恐ろしい人なの! 雨芽はもう病気なのよ! 残された時間だって多くないのに! そんなに待ちきれなかったの!?」

野呂母は鼻水も涙もぐしゃぐしゃに流し、野呂父が慌ててその肩を支えた。

「もうよしなさい……」

「この子は、雨芽の嗅覚も味覚もほとんどなくなってるから、わからないと思ってやったのよ! 最初から、食事を作ること自体に下心があったんだわ! 妬んでるのよ、雲月さんがうちの雨芽を忘れられないのを! でも雲月さんはもうあなたの夫じゃないの。それなのに、どうしてそんなに心が狭いの? 死にかけてる人間ひとり、受け入えることもできないの!?」

林田知音はその場に立ち尽くしたまま、手のひらからすっと熱が引いていくのを感じていた。

口を開こうとした、そのとき。

「おじさん、おばさん、本当に知音を誤解しています」

そう言ったのは、目黒雲月だった。

「昨日、雨芽が僕の分を食べたいと言ったんです。深く考えずに、僕が自分の食事と取り替えた。えびペーストが入っていたのは、僕のほうです。僕が好きだから」

林田知音は目黒雲月を見た。

そして、ふっと冷たく笑う。

「……そう。あなたたち、一緒に食事をするときは、そんなふうに気軽に譲り合えるのね。あなたの料理と野呂さんの料理は、入れ替えても平気なんだ」

一拍置いて、彼女は静かに言った。

「あなたの潔癖症、治ったの?」

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