第4章
「わたしはまともな女よ。まともな女なら、自分の夫の時間も気力も、ほかの女に占領されて平気でいられるわけないでしょう! 目黒雲月、あなたみたいに頭のいい人が、どうしてそんな馬鹿なことを聞けるの? ああ……そうか。わたしは最初から、あなたが本当に娶りたかった相手じゃなかった。だからわたしが嫌がっていても、ずっと気にも留めなかったのね」
口にした自分の言葉が、まるで恨み言ばかり並べる女のようで、林田知音はぞっとした。最悪だった。
「林田知音、もう五年だ。僕たちの間には、それなりのわかり合いがあると思っていた。野呂雨芽のことはもう過去の話だ。でも、彼女とは小さい頃から一緒に育ってきたし、うちがどん底だったとき、彼女のご両親は目黒家を助けてくれた。おばさんも言っていただろう。あの数年間、僕は野呂家に面倒を見てもらって育ったようなものだって。野呂家がいなければ、目黒家が立ち直ることも、今の目黒雲月がいることもなかった。人は恩を忘れちゃいけない。そうだろう?」
「彼女は不治の病なんだ。最期を迎える前に、少しでも長く僕にそばにいてほしいと願っているだけだ。僕にとって彼女は、ただの妹みたいな存在だよ」
「じゃあ、わたしは?」
「君は僕の妻だ。君とらいちゃん、この二人が僕にとっていちばん大切だ。そのことだけは、変わらない。信じてくれないか?」
目黒雲月の真剣な顔を見つめながら、林田知音は思った。彼の口にする言葉は、たしかにどれも本気に聞こえる。なのに、どうしてだろう。もう彼を信じる力が、自分の中から抜け落ちてしまったような気がした。
「来週が僕たちの結婚記念日だってことも、ちゃんとわかってる。林田知音、来週の金曜は二人きりで過ごそう。この数年、僕たちはほとんど二人だけの時間を持てていない。来週の金曜だけは、どんな用事も、誰にも邪魔はさせない。いいね?」
「……」
林田知音のまなざしがかすかに揺れ、握った拳に力がこもる。何を言えばいいのか、わからなかった。
これは何。機嫌取り?
何のために。野呂雨芽のため? それとも――この、夫婦として礼儀だけは保っているような結婚のため?
目黒雲月は自分から一歩近づき、林田知音をそっと抱き寄せた。
「君はずっと度量があって、ずっと人の気持ちがわかる人だった。僕が君の気持ちをないがしろにしていたんだ。でも信じてほしい。君と、らいと、僕。この三人が本当の家族なんだ。だから――もう少しだけ、僕のために耐えてくれないか」
結局、やっぱり野呂雨芽のためなんだ。
林田知音はもう一度、そっと目を閉じた。
「……わかった」
かすかな返事。あれは譲歩だったのか。違う。ただ話を終わらせただけだ。
けれど目黒雲月は、それに気づかなかった。林田知音が一人になりたいと言うと、彼はそのまま病室のほうへ向かっていった。
非常階段はしんと静まり返っていた。林田知音の体からは、とうに力が抜けきっている。手すりに身を預け、ゆっくりと階段に腰を下ろした。一晩ほとんど眠れず、朝から何も口にしていない。そのうえ病院へ来て、こんな口論までしたのだ。くらくらと目が回り、吐き気がこみ上げ、額からは冷や汗がたらたらと流れ落ちる。
そのときだった。沈黙を裂くように、不意に着信音が鳴った。
林田知音がわずかに身をこわばらせると、頭上から男の声が降ってくる。よく通る、軽く笑みを含んだ声だった。
「はいはい。ちょっと外して一本吸ってた。ついでに、なかなか面白い話も聞けてね……ああ、わかった。すぐ行く」
男は通話を切り、そのあと足音が一段ずつ近づいてきた。
林田知音は唇を噛んだ。あの言い方だけで十分だった。自分と目黒雲月のやり取りを、この男は物陰で最初から最後まで聞いていたのだ。
今はただ、どこかへ隠れてしまいたかった。けれど、立ち上がる力すら残っていない。
林田知音は顔を伏せ、腕の中へ埋める。見知らぬ相手にからかわれたうえ、顔まで見られるなんて真っ平だ。そう思った次の瞬間、視界がすっと暗くなり、体が言うことをきかないまま階段へ倒れ込みかけた――
すぐあとに、あたたかい手が額に触れた。続いて顎を軽く持ち上げられ、口の中へ飴をひと粒放り込まれる。
「不倫相手に振り回されて低血糖とか、泣けるねえ……ったく」
わたし……
言い返したかった。けれどまだ意識がはっきりしない。男はもう立ち上がっていて、去り際にひと言だけ残した。
「落ち着いたら何か食べな。ほかにも具合が悪いなら、ちゃんと外来にかかれよ。どうせ病院に来てるんだから」
ぼやけた視界の先に、白衣をまとったすらりと長い背中が見えた。
それからさらに五分ほどして、ようやく林田知音の体調は少し落ち着いた。目黒雲月にメッセージを一本入れ、そのまま先に家へ戻ることにした。
大島は彼女の顔色の悪さにすぐ気づいた。頬は青白いのに、片側には赤い跡まで残っている。心配そうにあれこれ尋ねてきたが、林田知音はただ「お腹が空いた」とだけ言って、しっかり食事をとったあと、そのまま眠りについた。
目を覚ますと、携帯には二件メッセージが入っていた。一件は目黒雲月からで、帰宅が遅くなるという連絡。もう一件は親友からの夕食の誘いだった。身支度を整え、彼女は外へ出た。
千野二羽とは、海外で一緒に音楽を学んだ仲だ。けれどその後、二人とも音楽の道には進まなかった。一人は結婚して子を持ち、一人は進路を変えて医学を学んだ。
都心には高層ビルや商業施設が立ち並んでいる。そんな街の中で、千野二羽と林田知音が腰を下ろしていたのは、古びた通りにある中華料理店だった。テーブルに並ぶのは、唐辛子の効いた料理ばかり。林田知音はもともと辛いものが好きだ。けれど目黒家の人間は、ほんの少しの辛味さえ苦手で、この数年ですっかり自分の舌も薄味に慣れてしまっていた。
いま、林田知音は箸を手にしたまま、ごくりと唾を飲み込んでいる。そんな彼女を見て、千野二羽が笑った。
「どうしたの? 昔はもっと平気で食べてたじゃない」
林田知音はじろりと睨む。
「笑ってなさいよ。あんたも結婚したら、きっとわかるわ」
千野二羽は気にも留めず、肩をすくめた。
「結婚ってそんなに自分を変えなきゃいけないものなら、わたし、一生独身でいいけど」
林田知音ははふはふと辛さに息をつきながらも、言い返すことは忘れない。
「それはまだ、心から変わってもいいって思える相手に会ってないだけ」
「目黒雲月って、ほんとにそこまでいい男なの?」
千野二羽は最初から、林田知音が目黒雲月にそこまで惚れ込んでいる理由がわからなかった。
「林田家だってG市じゃ名の通った名家でしょ。で、目黒家は? 昔はたしかにすごかったけど、十年前の金融危機で破産寸前までいったじゃない。そのあと、目黒雲月が一人で目黒グループを背負って立て直したのは大したものだけど、昔みたいな栄華を取り戻すには、まだどれだけかかるかわからないわ」
「だからこそ、あんなに必死なのよ……」
林田知音はぽつりとつぶやいた。
「十五年前、一度だけ彼に会ったことがあるの。あの頃の彼は、今とは全然違ってた……」
「へえ?」
千野二羽の目が、たちまち面白そうに細まる。
「なにそれ……もしかして初恋?」
林田知音は少し気まずそうに視線をそらした。
「あの年、わたしは両親と一緒にこっちへ来て、知人の家を訪ねたの。そのあと、上流階級の集まりみたいなパーティーに出席して……当時の目黒雲月は、まるで本物の貴公子みたいな少年だった。年上の人に頼まれて、彼がわたしの面倒を見てくれてたんだけど、その日にちょっとした事故があって……」
「事故?」
林田知音はうなずいた。
「会場の厨房で爆発が起きて、火事になったの。あのとき、わたしは控室にいて、煙に巻かれて息ができなくなりかけてた。そこを助け出してくれたのが、目黒雲月だったの」
千野二羽はじっと林田知音を見つめた。
「なによ?」
「知音、それ、出来すぎじゃない? ドラマみたい」
林田知音はまた白い目を向ける。
「それがどうしたの。そういう、いかにも少女向けの作り話みたいな展開でも、実際に自分の身に起きたらわかるのよ。恋愛小説に出てくる胸の高鳴りって、ほんとなんだって」
千野二羽はくすっと笑った。
「知音、わたし急に気になってきた」
「何が?」
「そんな純情な子うさぎみたいなあんたが、どうやって目黒雲月をベッドまで連れ込んだのか」
言い方はあまり上品ではない。けれど、そこに悪意はまるでなかった。二人は何でも話せる、そんな親友同士なのだ。
「そうね。わたしも気になる……あの夜、どうして彼はその気になったのかしら」
「……ねえ。あんたと目黒雲月、本当に大丈夫?」
林田知音の瞳をかすめた一瞬の寂しさを、千野二羽は見逃さなかった。
「大丈夫とか大丈夫じゃないとか、そういう話でもないでしょ。自分で選んだ道なんだから……」
「知音。あんたね、野呂雨芽に比べて何が足りないかわかる?」
林田知音は顔を上げた。
