第8章
目黒雲月は額に手をやり、苛立ちと同時に胸の奥がざわついた。電話に出ない――それだけで焦りが倍増する。
対照的に、林田知音は驚くほど落ち着いていた。グラスをゆっくり持ち上げてひと口含み、なめらかなフォアグラを切り分け、スープカップのふぐ汁をすくう。その所作は、まるで隣で嵐が吹いていないかのように優雅だ。
「目黒雲月」
知音は口元をそっと拭い、微笑みながら言った。
「早く行って。もし彼女に何かあったら――私たち、一生後悔することになる」
雲月は拳を強く握りしめる。七回、八回。立て続けにかけても、野呂雨芽は出ない。
三か月前。雨芽が末期がんだと診断された直後、彼女は絶望し、何度も自ら命を絶とうとした。幸い、そのたびに間一髪で止められたが、雲月は知っている。雨芽は本気でやってしまう人間だ、と。
しかも、さきほど届いた雨芽のメッセージには、こうあった。
【雲月兄さん、あなたがずっと罪悪感で私のそばにいてくれたこと、わかってる。残業だなんて嘘つかなくていいよ。SNSで、クラウドレストランで雲月兄さんと林田知音さんが一緒にいるって目撃投稿を見て――今日が結婚記念日だったこと、思い出しちゃった。ドローンでのロマンチックな告白、すごくきれいだった。けど、あれは私のじゃない。もう何も望んじゃいけないよね。雲月兄さん、胸の痛みも、病気の痛みも、今夜で終わりにする。さよなら】
「知音、ごめん。病院に一度だけ行ってくる。彼女が無事だと確認できたら、すぐ戻る。部屋で待っててくれる?」
「うん。運転、気をつけてね」
雲月は知音の腰を抱き寄せ、額を寄せるように軽く口づけた。
「すぐ戻る」
「うん」
大股で去っていく背中。知音は目の前の空いた席を見つめながら、はっきりわかっていた。
彼は、もう戻らない。
この三か月――いや、五年。彼は一度だって、彼女の「待ってる」に焦って駆けつけたことなどなかった。
五年待った。だから今日、もう待たない。
グラスを飲み干し、上着を手に取り、バッグを肩にかけたところで、目の前に皿が一枚、追加で置かれた。
「林田様、こちらが最後のお料理でございます」
「……」
笑いそうになるのをこらえるのが難しかった。給仕も知音の反応に戸惑い、「いかがなさいましたか」と顔を覗き込む。
「なんでもないです。おいしそう。でも――出てくるのが遅すぎました。食べません」
そう言い捨て、知音は給仕を避けてそのまま外へ出た。
酒が少し回りすぎたのか、足元がふらつく。エレベーターに乗り込んだ瞬間、よろめいて誰かにぶつかった。
「すみません、すみません……」
「……酔ってるのか?」
その声に、知音の酔いが一気に引いた。顔を上げると、さっき彼女を小馬鹿にした、どうにも気に食わない顔がそこにあった。
「あなた! なんでそんなにしつこいのよ」
本気で嫌そうに言いながら、知音は手を振った。まるで相手が幽霊でもあるかのように。手が動けば身体も揺れる。
「この最悪なヒール! まともに立てないじゃない!」
そう言って、両足のハイヒールを脱ぎ捨てた。
日野成謙は目を細める。面倒な女――のはずなのに、酔っているせいか妙に可愛げがある。
腕を組んだまま、本来なら降りるところを、彼は壁に寄りかかって余裕ぶった。
「行き先は? 一階、それとも駐車場?」
「は? あんたに関係ないでしょ」
酔っていても警戒心だけは強い。
「旦那さんは? 今日は結婚記念日だろ。さっきまでイチャイチャしてたじゃないか。花にピアノに、ドローンで告白までして。なのに今は一人で酔っぱらって……やけに寂しそうだ」
純粋な好奇心のつもりでも、知音には棘にしか聞こえない。
知音は成謙を指さした。
「そうよ、あんた! あんたに会うたび私、ろくな目に遭わない! 毎回! 毎回よ! 私の立場が最悪になる! 疫病神!」
成謙は眉を上げた。
「林田様、さすがに筋違いだろ。自分で旦那の心つかめてないのに、通りすがりの俺のせいにするのか?」
「する! あんたのせい!」
「……」
成謙は言葉を失った。
「どいて、邪魔」
知音が成謙の身体をぐい、と押しのける。華奢に見えて、やけに力がある。彼女はボタンの前に身を寄せ、一階を押した。
成謙は放っておこうと思ったが、扉は閉まってしまった。仕方なくそのまま壁にもたれ、酔っ払いが次に何をやらかすか眺めることにする。
知音はスマホを取り出し、千野二羽に電話をかけた。相手はすぐに出る。
「知音? どうしたの?」
「二羽ちゃん、迎えに来て……」
「迎えに? 今日、目黒雲月と記念日じゃなかったの?」
その一言で、知音の張り詰めていたものが崩れた。涙が溢れ、呼吸が乱れる。
「なにが記念日……あの人、嘘つき……。二羽ちゃんも、全然当てにならない……私に魅力があるとか、略奪する女みたいに振る舞えば夢中になるとか、なにそれ……。野呂雨芽が電話一本しただけで、すぐ出ていった、出ていったの……うぅ……」
「知音、今どこ? すぐ行く」
「いま……いま……」
知音はエレベーターの表示を見て、それから成謙に視線を落とした。
「病院……。またあの盗み聞きしたクソ医者に会った……」
クソ医者。
成謙は自分を指し、呆れたように目を上へ向ける。
「病院? なんで病院にいるの? 本当に?」
向こうも半信半疑だ。
成謙は見ていられず、知音の手からスマホを取り上げた。知音はむっとして奪い返そうとするが、身体がぐらりと傾き、そのまま成謙の胸に倒れ込む。成謙の腕が肩をしっかり抱きとめた。
もがこうとする知音に、低い声が落ちる。
「動くな。酒癖、最悪だな」
小さくぼやいてから、成謙は電話口へ言った。
「友達はクラウドレストランにいます。酔ってます。迎え、どれくらいで来られますか」
「あなた、どなたですか?」
「クラウドレストランのオーナーです。日野です」
名乗りたくはないが、最低限の礼儀はある。
「友達、大丈夫ですか? 今から向かっても、早くて一時間くらい……ちょうど夕方の混雑で」
「なら、上の階の部屋を取ります。これだけ酔ってるなら、休ませる場所が必要だ」
二羽は何度も礼を言う。
「ありがとうございます。日野の旦那様、助かります。すぐ向かいます」
通話が切れた。
成謙の胸に寄りかかった知音は、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに静かだった。ただ、黙って泣いている。その涙で、成謙のシャツはじわじわと濡れていった。
エレベーターは一階に到着する。成謙は行き先を押し直した。扉が閉まり、箱は再び上へ昇っていく。
知音は酔っている。でも意識を失ってはいない。成謙が二羽と交わしたやり取りも、全部聞こえていたのだろう。だから、むやみに暴れなかった。
酒で吐き出すのにも、限度がある。
