第9章
そのうえ今の彼女は脚に力が入らず、頭もくらくらしていた。これ以上あちこち振り回すのは無理がある。
日野成謙は最初、肩を貸して歩かせるつもりだった。だが、今にも捨てられた子犬みたいにしょげ返っている林田知音を見て、軽く首を振る。次の瞬間、彼女をひょいと横抱きにし、そのまま大股でホテルの部屋へ向かった。
部屋に入ると、日野成謙は彼女をベッドへそっと下ろした。身を起こしかけた、そのときだった。首に、するりと両腕が絡みつく。
日野成謙はわずかに目を見張った。
視線の先には、昏い色をたたえ、それでいてどこか妖しく人を誘うような表情の林田知音。互いの吐息が混ざり合いそうなほど近い距離で、彼はすっと目を細めた。
「林田さん……これは、どういうつもりですか」
林田知音は、まるで何かに憑かれたみたいに、ふいに口を開いた。
「私、きれい?」
「……」
「日野さん……ねえ、聞いてるでしょう。どうして答えてくれないの?」
「きれいですよ。ですが、あなた以上にきれいな女性なら、見たことはあります。……ご主人に捨てられて、自信をなくしましたか」
「じゃあ、私がきれいなら……どうしてあの人は私をいらないの?」
「それは、ご自分の夫に聞くべきでしょう」
林田知音は小さく首を振る。
「あの人に聞いても、答えなんて出ないもの」
答えが出ないというより――自分が受け入れられる答えなど、きっと返ってこない。
「今日は、私たちの結婚五周年なの。なのにあの人、別の女のところへ行ったのよ。……私、すごく惨めでしょう?」
日野成謙はうなずいた。
「ええ、たしかに。ひどい話です」
彼女の唇からこぼれるかすかな酒の匂いには、人の理性を鈍らせるような妖しさがあった。日野成謙もまた、ほんの一瞬、意識が揺らぐ。
こんな至近距離で見つめれば、なおさらだった。
その瞳には涙がにじみ、悲しみが沈み、それなのに甘い誘惑まで宿っている。
彼にはわかっていた。彼女が何をしようとしているのか。
成熟した男を少しずつ狂わせ、自分がまだ魅力のある女だと証明したいのだ。
次の瞬間、林田知音の腕にぐっと力がこもる。引き寄せられた日野成謙の唇が、そのまま彼女の唇に重なった。
見つめ合う双眸のあいだで、日野成謙の目は驚きから危うい色へと変わっていく。対する林田知音の瞳は、かすかな不安を滲ませながらも、やがてはっきりとした決意に染まった。
彼女はそっと目を閉じ、自分からその口づけを深くしていく。
目の前にあるのは、息をのむほど整った、美しい顔。
白い肌。細くやわらかく弧を描く眉。まつげは濃いわけではないのに、すらりと長い。いまはしっとり濡れていて、目元も赤い。思わず庇ってやりたくなるような、痛々しいほどの儚さ。
それを見た途端、日野成謙の胸の奥まで、ふっとやわらいだ。どうしてだか、いたわるような痛みが生まれる。
彼女は頑ななまでに口づけを深めてくる。唇は焼けつくほど熱い。
まるで火の塊だった。
自分も、そして彼まで、何もかも焼き尽くしてしまおうとするような――そんな危うい熱。
「んっ……」
「じきに、ご友人が来ますよ」
日野成謙は、さんざん弄ばれて赤く腫れた彼女の唇から身を離した。親指でそこをそっとなぞりながら、掠れた声を耳元に落とす。
林田知音は目を開ける。
「一時間って言ってたじゃない……」
「一時間じゃ、足りません」
囁くように告げる唇が耳たぶに触れ、その熱に彼女の身体がびくりと震えた。言葉の意味を理解した途端、顔がかっと赤くなる。
「林田知音。俺の名前を、よく覚えておいてください。日野成謙です」
「……」
「あなたが吐き出したいのは、悔しさと怒りだ。ですが、相手を間違えている」
彼の声は低く、逃がさないように耳へ絡みつく。
「林田知音。今夜、火をつけたのはあなたです。だから、この埋め合わせはしてもらう。……あなたが本当に心から望んだときに、その借りを返してください」
言い終えるや否や、日野成謙は彼女の首筋にぐっと歯を立てた。
鋭い痛みが走る。
そのあと、乱れた服は手際よく整えられ、熱に浮かされて刻まれた痕跡も、ひとつずつ撫で消されていく。
そして最後に響いたのは、扉が閉まる音だった。
広すぎる部屋に残されたのは、荒い息をつく彼女ひとり。
やがて少しずつ鼓動が落ち着いてくると、林田知音は自分の目を手で覆った。
「林田知音、ほんとにどうかしてる……こんなの、あの二人と何が違うのよ……」
————
千野二羽が駆けつけたときには、林田知音はすでにシャワーを浴び終えていた。
「知音! 大丈夫!?」
心配そうな顔を向ける千野二羽に、林田知音はかすかに笑って肩をすくめる。
「二羽ちゃんが来てくれたから、もう大丈夫」
まだ理性ははっきりしているらしい。そう見て取った千野二羽は、ようやくほっと息をつき、すぐに歩み寄って彼女をぎゅっと抱きしめた。
「いったい何があったの? ちゃんと話して」
「うん。とりあえず、中に入って」
そうして林田知音は、目黒雲月がどれほど甘ったるく自分に接していたか、それなのに野呂雨芽からの一本の電話でどうやってあっさり呼び出されていったかを、かいつまんで話した。
聞き終えるころには、千野二羽の拳はわなわなと震えていた。
「あのクソカップル……! 中央病院ね!? 今すぐ乗り込む!」
がたっと勢いよく立ち上がり、そのまま外へ飛び出そうとする。林田知音はぎょっとして、慌ててその腕をつかんだ。
「二羽ちゃん、落ち着いて」
「落ち着けるわけないでしょ! あたしはあんたみたいにお人好しじゃないの! あの野呂って女、ぶん殴ってでも目ぇ覚まさせてやる! 知音が遠くへ嫁いできたからって、後ろ盾がいないとでも思ってんの!?」
千野二羽の気性は、林田知音もよくわかっている。頭に血が上った彼女を止めるのは簡単じゃない。案の定、千野二羽はもう扉のところまで行きかけていた。
林田知音は咄嗟に声を張る。
「私、もう離婚するって決めたの!」
「……」
ぴたりと足が止まった。
千野二羽は振り返り、林田知音を見る。
「二羽ちゃん。私、目黒雲月と離婚する」
林田知音は彼女のもとへ歩み寄り、半ば強引にソファへ連れ戻した。ついでに水まで注いでやる。その様子だけ見れば、今夜傷ついたのがどちらなのかわからないくらいだった。
「前から二羽ちゃんは言ってくれてたよね。目黒家に縛られちゃだめだって。目黒雲月とらいちゃんだけを見て生きるなって。でも、私は聞かなかった」
自嘲気味に、彼女は目を伏せる。
「この二人を守って、目黒家の妻としてちゃんとしていれば、いつか欲しい幸せが手に入るって信じてたの。……でも結局は、自分を見失って、他人にとってはどうでもいい付属品になっていただけだった」
静かな声音には、もう揺らぎがない。
「前はね、目黒雲月を愛していれば、どんなことでも耐えられるって思ってた。でも、いくら私でも、五年もあれば目が覚める。彼を愛していた頃は、あの人が私の全部だった。……でも愛していないなら、目黒家に私を引き留められるものなんて、何があるの?」
千野二羽は黙って聞いていた。
その目は、林田知音の表情をじっと見つめている。そこにいる彼女は、先週会ったときの迷いを抱えた女ではなかった。澄んだ目で、まっすぐ前を向いている。
「らいちゃんは……」
千野二羽がぽつりと言う。
「知音をつなぎ止めるとしたら、もうらいちゃんだけだよ」
林田知音は首を横に振った。さっきよりも、さらに強い眼差しで。
「らいちゃんでも、私を目黒家に縛ってはおけない。あの子は私が連れて出る」
「……親権を取るつもりなの?」
千野二羽は明らかに驚いていた。
林田知音はしっかりとうなずく。
「らいちゃんは、私がお腹で十か月育てて、丸二日かかって産んだ子なの。四年間、ずっと手をかけて育ててきた。そんな子を、どうして目黒雲月に置いていけるの」
ひと息置いて、彼女はさらに言葉を継いだ。
「それに、この先、目黒雲月が野呂雨芽を家に入れるかもしれない。そんな目黒家にらいちゃんを残して、あの子が幸せに暮らせると思う?」
千野二羽は、彼女がそこまで先のことを考えていたのかと、息をのんだ。
「離婚、か。……ほんとに踏ん切りつくの?」
林田知音はふっと笑う。
「とっくに汚れきったものに、何を惜しむ必要があるの。こんな結婚、続ける価値なんてないよ」
その瞬間、千野二羽は両腕を広げ、林田知音を力いっぱい抱きしめた。声には抑えきれない熱が混じっている。
「それでこそ、あたしの知ってる林田知音だよ!」
