第4章

雅之視点

「しっ」と俺は囁き、恵に絶対に音を立てないよう身振りで伝えた。

 急いでズボンを穿き、物音の正体を確かめるためドアの外へと向かう。

 ドアを開けると、階段を上ってくる美咲の姿が見えた。

 今の、聞かれただろうか?

「こんな夜遅くにどこへ行くの?」水の入ったグラスを手に、美咲が尋ねてきた。

 喉が恐怖で締め付けられたが、俺は必死に平然とした声を装った。

「恵が……睡眠薬を忘れてね。俺の部屋に予備があったから、ちょっと持っていくところだ。」

 美咲はそれ以上追及しなかった。俺の肩越しに部屋の中を覗き込もうともせず、ただ無関心に頷いただけだった。

「そう。」彼女はそう呟くと、俺の横を通り過ぎていった。

「おやすみなさい。」

 彼女の部屋のドアがカチャリと閉まるのを、俺はただ呆然と立ち尽くして見送った。冷や汗が背筋を伝う。なんとか危機は脱したものの、胃の腑の底で、吐き気を催すような空虚な感覚が腐り始めていた。

 その夜遅く、どうしても寝付けなかった俺は、彼女の部屋に忍び込んだ。美咲はすっかり熟睡しており、その寝息は深く、規則正しかった。狂おしいほどに心を蝕む不安に突き動かされ、俺はナイトテーブルから彼女のスマートフォンを慎重に抜き取り、自分の書斎へと持ち込んだ。

 昔のパスコードを入力してロックを解除すると、大学時代のルームメイトである菜月との、短いメッセージのやり取りが見つかった。

【菜月:本当に何も感じないの? 昔は彼が他の女を見ただけで、あんなに取り乱してたじゃない。】

【美咲:何もないわ。まるで赤の他人を見ているみたい。イーエムディーアールでトラウマは消えたけど、彼や百合に対する愛情まで完全に焼き切れてしまったの。彼と肌を合わせるなんて想像しただけで虫唾が走るわ。ただただ、疲れるだけの存在よ。】

【菜月:彼とは別れるべきよ、美咲。サロンの収入だけで十分やっていけるんだから。】

【美咲:分かってる。でも、もう疲れちゃって。】

 俺はスマートフォンを机の上に落とした。光る画面が、目の前でぼやけていく。

 彼女は恋の駆け引きをしているわけではなかった。当てつけがましい復讐の手段を用いているわけでもない。あの実験的な記憶消去は、流産の悲しみを消し去っただけではなかったのだ。その過激な脳への干渉は、俺や娘に対する彼女の感情の神経回路をも、完全に切断してしまっていた。

 暗い書斎に一人座り込む俺の首に、息が詰まるような恐怖が巻き付いてきた。

 何年もの間、俺は彼女の必死で息苦しいほどの愛に心底うんざりしていた。哀れで、被害妄想の激しい厄介者だと見下していたのだ。誰にも邪魔されずにヨーロッパ旅行を満喫するためだけに、彼女を葉山のリハビリ施設に三ヶ月も放り込んだ。帰国すれば、忠犬のように俺を待っているはずだと高を括っていた。

 だが今、俺が当たり前だと思っていたその献身は、完全に消え失せてしまった。

 翌朝、俺は体調不良を感じながらダイニングルームへと足を踏み入れた。一睡もできず、肌は青ざめ、目元は重く沈んでいた。

 美咲はテーブルに座り、静かにブラックコーヒーを啜っていた。

「美咲。」俺は声をかけたが、その声は微かにひび割れていた。恐怖を隠すため、無理やり優しく慎重な笑みを浮かべる。

「今日、君をクリニックに連れて行きたいんだ。脳の精密検査をしよう。あの治療が……君の感情処理に、軽微な副作用を引き起こしたかもしれない。」

 美咲はマグカップを置いた。

「検査なんて必要ないわ。私の記憶は正常よ。」

「美咲。」俺の声は震え、専門家としての仮面から絶望が滲み出していた。

「あの処置は実験的な段階で――」

「私があなたにとって初めての人体実験だったことは知っているわ。」彼女は淀みなく遮った。

 俺は凍りついた。顔から一気に血の気が引いていく。

「……何だって?」

「あなたが私をリハビリ施設に捨てたとき、看護師たちが話していたの。」美咲はひどく淡々とした声で言った。

「優秀な雅之先生は、悲しみに暮れる妻を、極めて危険な記憶消去実験の違法な被験者にするなんて、なんて残酷な人だろうって、ひそひそとね。彼女たち、私に同情していたわ。」

 激しく震える手をテーブルの向こうへと伸ばし、俺は彼女の手を掴んだ。

「直せるんだ。」俺は絞り出すように言った。完全なパニックに陥り、その姿はひどく滑稽で哀れだった。

「美咲、誓って言う、君の脳を元通りにする。抑制を解除できるんだ。もう一度、君に感情を取り戻してみせる。俺を……もう一度愛せるようにするから。」

 美咲は俺の震える手を見下ろした。その眼差しには、微塵の同情も宿っていなかった。

「いいえ。」彼女はそう短く告げると、あっさりと俺の手を振り払った。

 俺は恐怖に顔を引き攣らせて彼女を見つめた。

「いいえ? いいえって、どういう意味だ? 直さなきゃ駄目なんだ! 君は俺を愛していただろう! こんな風に、突然愛せなくなるなんてあり得ない!」

「でも、愛せなくなったのよ。」美咲は俺の目を真っ直ぐに見据えて答えた。

「それに、率直に言って、今の状態の方が気に入っているわ。あなたが私の脳をかき回したとき、どんな気分だったか分かる? 神経細胞をミンチ機にかけられているみたいだった。肉体的な苦痛も耐え難いものだったわ。あなたの自尊心を満たすためだけに、二度も私の心を切り刻ませるつもりなんて毛頭ないわ。」

 まるで物理的に殴られたかのように俺はよろめき後ずさり、肺に一呼吸分の空気を吸い込むことすらもがいていた。

 美咲はテーブルから立ち上がった。彼女には俺の金など必要ない。俺の庇護も必要ない。そして当然ながら、俺の愛など全く必要としていなかった。

「今の私の状態が、一緒に暮らすうえで不都合だと言うのなら、雅之。」まるで天気の話題でも口にするかのような気軽な口調で、美咲は言い放った。

「ただ離婚すればいいだけの話よ。」

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