第1章 夫が元カノの帰国を出迎える

「血液検査の結果は明日になります。古川奥さま、今日はお帰りになって休まれてください」

診察室で医師が羽鳥秋葉にそう告げた。

ここ最近、秋葉は吐き気が続いていた。念のため、病院で診てもらおうと思ったのだ。

何か言いかけた、そのとき。スマホの着信音が鳴った。

「どこにいる」

受話口から聞こえたのは古川静弘の声。

「会社の周年パーティー、人手が足りない。来い」

秋葉は一瞬ためらった。体調がよくない、と言いたかった。

けれど電話の向こうでは、わっと歓声が上がっている。何かを祝っているような空気だった。

「みんな残って準備してる。おまえだけ欠席はない」

そう言い捨て、古川静弘は一方的に通話を切った。

秋葉は手にした診療記録を握りしめる。指先がひんやり冷えた。

古川静弘は普段、こういう社員向けの催しに顔を出さない。なのに今日は、なぜこんなに必死なのか。

――それでも、彼女は行った。

この三年、秋葉は古川奥さんという役をきちんと演じてきた。手を抜いたことなど一度もない。

会場に着くと、総務の若い女の子たちが口元を押さえてくすくす笑っていた。

「ほらね、やっぱり来た」

「古川社長の一本の電話がいちばん効く」

「でも気の毒。社長、羽鳥さんのこと掛け名だけの奥さま扱いだし……」

いつもの噂話。秋葉は聞こえないふりをして、まっすぐ古川静弘のほうへ向かった。

古川静弘は落ち着いた足取りで、床まで届く窓の前に立ち、電話をしていた。

濃いグレーのスーツ。すっと伸びた背、広い肩、彫りの深い顔立ち。

秋葉に気づくと、彼は片手を上げて「待て」と合図する。

……気のせいだろうか。あの真剣な表情。相手は、彼にとってよほど大切な人らしい。

しばらく待っても、切る気配はない。

秋葉は諦め、先にホールの様子を見に行くことにした。

その直後、背後から総務の二人の声が聞こえてくる。

「社長、須藤嬢のことほんと大事にしてるよね。風船の色まで好みに合わせるって」

「そりゃそうでしょ。須藤嬢、予定より早く帰ってきたんだって。社長が自分で会場飾りに来たの、サプライズのためらしいよ」

「やば……須藤篠華、羨ましすぎ」

須藤篠華――。

その名前を聞いた瞬間、心臓がきゅっと痛んだ。秋葉の指が無意識に強く握り込まれる。

なるほど。

このパーティーは会社のためじゃない。

古川静弘が三年前、海外留学へ送り出した元恋人――須藤篠華の帰国を祝う会だったのだ。

「羽鳥、なんで来たの?」

同僚が近づいてきた。からかうような目つき。

「古川社長に呼ばれたから」

そう答えたタイミングで、ちょうど古川静弘が通話を終えた。

彼は秋葉を見るなり、淡々と言う。

「もう人手は足りてる。帰っていい」

訳がわからない。でも彼の態度は揺るがない。

秋葉は従うしかなかった。

「……わかりました」

背後の話し声が、さらに鮮明に耳へ刺さる。

「社長、須藤嬢が来て羽鳥がいたら気まずいもんね」

「当時だって、羽鳥の父親が古川家を助けなかったら結婚してないって話だし」

「須藤嬢が戻ってきたら、古川奥さんの座、守れないんじゃない?」

秋葉は表情を崩さなかった。けれど胸の内は、刃物で細かく刺されているみたいに痛い。

結婚してから、古川静弘はずっと冷たかった。

それでも信じていた。自分が従順でいれば、いつか振り向いてくれるはずだ、と。

なのに元恋人の帰国。その一報だけで、また自分は笑いものになる。

ビルを出ると、空気が一段と冷えていた。

秋葉は上着の前を合わせる。すると、また吐き気がせり上がってきた。

そのとき、スマホが鳴った。病院からだ。

「奥さま、血液検査の結果が早く出ました」

医師の声が弾んでいる。

「おめでとうございます。妊娠です。8週ですね。よく休んでください。特に最初の3か月は――」

それ以上、耳に入らなかった。

頭の中で、ぶわん、と音が鳴った。夢みたいだ。

――妊娠。

古川静弘との、子ども。

秋葉は反射的に下腹へ手を当てた。気づけば涙が滲んでくる。

神様は、彼女を笑っているのだろうか。

須藤篠華が帰国した、その矢先に妊娠だなんて。

でも、静弘はこの子を受け入れるのだろうか。

帰り道、胸の奥がずっと落ち着かない。

どう伝える? どう言えばいい?

静弘が知ったら、喜ぶだろうか。

――夜11時。

古川静弘が帰宅した。

リビングは暗い。彼が上着を脱ぐと、ソファの隅に丸くなった人影が見えた。

羽鳥秋葉だった。

両手で下腹を押さえ、額には冷や汗がびっしり。

静弘の胸がきゅっと縮む。彼は足早に駆け寄った。

「秋葉、どうした」

返事はない。痛みに肩が小さく震える。

「どこが辛い?」

静弘はしゃがみ込み、額に手を当てた。熱い。

「病院へ行く」

「……いらない」

秋葉がようやく目を開ける。声はかすれていた。

「胃が痛いだけ。引き出しに薬が……」

静弘は薬箱を探り、胃薬を見つけるとぬるま湯も用意した。

彼が支えて秋葉を起こし、錠剤を飲み込むのを見届ける。眉間にしわが寄ったまま。

「具合悪いのに、なんでパーティーに行った」

責めているのか、心配しているのか。判別できない声音。

「人手が足りたら帰っていいって言っただろ?!」

秋葉は目を閉じる。顔色は真っ白だ。

「……私に来てほしかったんじゃないの?」

静弘は視線を逸らし、硬く言った。

「古川奥さんとして、いるべき場だ」

「須藤篠華の歓迎会のために、私が大人のふりして出ていかなきゃいけないってこと?」

口にした瞬間、秋葉は後悔した。

こんなにみっともなく嫉妬したくなかった。それでも、止められなかった。

――お腹には赤ちゃんがいるのに。

その父親は、別の女のために歓迎会を取り仕切っている。

気にしないなんて、無理だ。

古川静弘の顔が険しくなる。

「どうしてそれを知ってる」

秋葉は苦く笑った。

「知らないほうがよかった? そう言いたいの?」

薬が効きはじめ、痛みが少し引いていく。

自分でも後ろめたかったのか、静弘は彼女の背に手を回し、そっと撫でた。

「……もういい。機嫌を直せ」

彼がこんなふうに優しくするのは珍しい。そのわずかな優しさに、秋葉の意識が揺らぐ。

妊娠のせいで、彼女はいつにも増して脆くなっていた。声も力がない。

だが静弘の目には、それが妙に艶めいて映ったのだろう。

「古川静弘……今日は、私……」

秋葉が小さく言いかけた、そのとき。

彼の手が肩から背へ、そして腰へ滑っていく。

耳元に吐息。微かに酒の匂い。

「まだ胃、痛いか?」

低い声。指先が腰のあたりを撫でた。

秋葉の体が硬直する。

――赤ちゃん。お腹に赤ちゃんがいる。医師も言っていた。初期は特に気をつけろと。

「だめ……だめ!」

秋葉は彼の手を押さえつけた。

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