第2章 3か月後に離婚する
古川静弘の動きが、ぴたりと止まる。
「……どうして」
「ちょっと、具合が悪くて」
羽鳥秋葉はまつげを伏せた。
「さっき楽になったんじゃないのか」
古川静弘の声には、露骨に不機嫌さが混じっている。
「秋葉。今日のおまえ、いったいどうした」
妊娠のことを言うべきか――迷った、その瞬間。
ふわり、と鼻腔を刺す馴染みの香り。
宝格麗のバイオレット。
古川静弘の襟元に、はっきりと残っている。
羽鳥秋葉は知っていた。あの香りは、須藤篠華がいちばん好んで使っていた香水だ。
――今日、会ってきたんだ。
胸の奥が、ひゅっと冷えた。
羽鳥秋葉は勢いよく彼を突き放す。胃がぐるりと反転し、こみ上げるものに喉が焼けた。
つわりなのか、ただの嫌悪なのか。自分でも判別できない。
「出てって」
震えた声が、かすれた。
古川静弘は訝しげに彼女を見る。羽鳥秋葉が彼を拒むなど、これまで一度もなかったからだ。
苛立ったようにネクタイを引き緩める。
「……この数日、会社が忙しい。家には戻らない」
羽鳥秋葉は、苦く笑った。涙が落ちそうになるのを、喉の奥で飲み込む。
忙しい――須藤篠華の相手で、だろう。
息を整え、言葉を選ぶ余裕など捨てた。
「古川静弘……私と離婚したいの?」
数秒の沈黙。
そして彼は、平然と言い放った。
「離婚したいなら、同意する」
心臓が、針で貫かれたみたいに痛む。胃の底が、すとんと落ちていく感覚。
何度も想像した。何度も覚悟した。
それでも現実は、想像よりずっと残酷だった。
「……わかった」
羽鳥秋葉は迷わない。
「でも、条件がある」
古川静弘が眉を寄せる。
「条件?」
「三か月だけ時間をちょうだい。三か月後、あなたの望みどおり離婚する。揉めない。古川家の金も、一切いらない」
それから、一息。
「ただ、その三か月は――表向きだけでも、普通の夫婦として過ごしたい。最低限、公の場では」
古川静弘の眼差しが、複雑に揺れた。
「……なぜ」
「私に、少しだけ尊厳を残して」
羽鳥秋葉は、かすかに笑う。
「みんなに、私が捨てられたんじゃなくて、自分から去ったって思わせたい。それって、そんなに過分な願い?」
古川静弘は小さく頷いた。心底どうでもよさそうに。
「好きにしろ」
そう言い残し、彼は出ていった。
羽鳥秋葉はソファに崩れ落ち、両手で下腹を包む。
まだ平らなお腹。その奥で、確かに命が育っている。
――この子は、黙って産もう。
「ごめんね、赤ちゃん」
囁きは、ひどく静かだった。
「ママ、あなたに「ちゃんとした家」をあげられない」
この三か月で、古川静弘への気持ちも、全部終わらせる。
一睡もできないまま朝が来て、それでも無理やり体を起こした。
洗面台の鏡に映る顔は、憔悴しきっている。
けれど――この子のためなら。どれだけきつくても、折れない。
階下へ降りると、古川静弘はすでにダイニングで朝食をとっていた。
濃紺のシャツに、淡い照明。
手元の端末には経済ニュース。何百回も見た光景だ。
今までは、これだけで胸が高鳴ったのに。
今日は、何も感じない。
古川静弘が顔を上げる。
「まだ顔色が悪い。今日はスタジオに行くな」
羽鳥秋葉にはフラワーアートスタジオがある。結婚後に立ち上げた、たった一つの居場所だった。
「顧客の結婚式装花、最終確認がある。行かなきゃ」
トーストに手を伸ばしかけ、途中でオートミールへと向きを変える。
その動きを、古川静弘は見逃さなかった。
「おまえ、オートミールは食べないだろ」
「……気分を変えたくて」
視線を合わせない。
「昨日、病院に行ったんだろ」
古川静弘は端末を置く。
「医者は何て?」
指先が、わずかに強張る。
「ただの胃腸炎。薬もらって、休めって」
古川静弘は黙ったままだった。
そこへ家政婦の安さんが、目玉焼きを運んでくる。
「奥さま、最近お味が変わりましたよねえ。昨日も油と塩を控えめにって。体を整えて、赤ちゃんの準備ですか?」
「安さん」
古川静弘が不快そうに遮る。
「今日は俺の夕食はいらない」
安さんは失言に気づき、慌てて下がった。
古川静弘が羽鳥秋葉を見る。
「午後どこに行くか、聞かないのか」
「聞く必要ある?」
淡々と返す。
「私たち、名目上の夫婦でしょ。あなたが外で何をしても、私には関係ない」
古川静弘の目が沈んだ。
「篠華が帰ってきた。午後、迎えに行く。おまえは好きにしろ」
羽鳥秋葉はスプーンを握りしめる。
「……わかった」
古川静弘は眉を寄せた。ここ数日、羽鳥秋葉が妙に冷たい。いつもの彼女ではない。
だが、どうせ離婚する。考えるのも面倒になったのだろう。
朝食を終え、羽鳥秋葉が先に立ち上がる。
「先に出る」
「運転手を――」
「いい。タクシーで行く」
バッグを手にし、羽鳥秋葉は皮肉っぽく言った。
「古川さんの「お迎え」の邪魔、したくないから」
玄関を出ると、風が冷たい。
トレンチをきつく締め、三年間住んだこの邸宅を振り返る。
ここが家だと、信じた時期もあった。
今ならわかる。
――ただの、豪華な檻だった。
スタジオは東区のクリエイティブパーク内にある。
羽鳥秋葉が着くなり、アシスタントのこはるが駆け寄ってきた。
「秋葉、顔色すっごく悪い。もしかして、また徹夜した?」
「ちょっと疲れてるだけ」
羽鳥秋葉は無理に口角を上げる。
「婚礼装花のプラン、クライアント確認は終わった?」
「終わったんだけど……問題がひとつ」
こはるが声をひそめた。
「メインフラワーを白いアヤメに替えてほしいって急に言われて。けど、この季節は国内のアヤメが全然なくて、輸入だと原価がかなり上がる……」
羽鳥秋葉はこめかみを押さえる。
「私が仕入れ先に当たる。こはるは他の資材を先に準備して」
午前中は、電話と調整に追われた。
妊娠の疲労が波みたいに押し寄せ、途中で二度、トイレへ駆け込んで乾いたえずきを吐く。
こはるが病院へ連れて行こうとするたび、羽鳥秋葉は首を横に振った。
昼、無理にパンを数口だけ詰め込む。
数分後、結局ぜんぶ戻した。
「それ、さすがに無理だって……」
こはるは泣きそうな顔だ。
「病院、行こう?」
「大丈夫」
口をすすぎ、息を整える。
「最近、ちょっと無理してただけだと思う」
スマホが震えた。古川静弘からのメッセージ。
【どこにいる】
羽鳥秋葉の目の奥が熱くなる。
昔なら、心配してくれていると勘違いした。
でも今はわかる。彼の心は須藤篠華にしか向いていない。
【スタジオ】
返すと、すぐに次が届いた。
【今夜、会社で篠華の歓迎パーティーがある。7時。場所は送る】
断ろうとして、指が止まる。
追い打ちみたいに、もう一通。
【忘れるな。この三か月、おまえはまだ古川奥さんだ】
羽鳥秋葉はしばらく画面を見つめたあと、短く返した。
【わかった】
パーティー会場は、古川グループ傘下の五つ星ホテル。
羽鳥秋葉が着いた頃には、ロビーにすでに大勢の客が集まっていた。
今日の彼女はサテンのロングドレス。ハイウエストが、まだ目立たない下腹をそっと隠している。
「秋葉! 来てくれたんだね?」
背後から、甘い声。
振り返ると、須藤篠華が立っていた。ワインレッドの背中の開いたドレス。隙のないメイク。
その隣には古川静弘。相変わらず冷たい表情。
「篠華が、おまえに直接礼を言いたいそうだ」
淡々と告げる。
須藤篠華は羽鳥秋葉の前に来ると、親しげに手を取った。
「秋葉、静弘から聞いたよ。紫の風船、あなたが自分で飾ってくれたんだって。本当に嬉しい」
指先が冷たい。
抜こうとしても、須藤篠華はむしろ強く握ってくる。
「風船くらいで、お礼はいらない」
羽鳥秋葉は感情を乗せずに言った。
須藤篠華が唇を噛む。
「……秋葉、顔色がよくないね」
そして、わざとらしく不安そうに。
「もしかして……私が帰ってきたの、歓迎してない?」
その瞬間、周囲の視線がふっと変わった。空気が、薄く尖る。
