第3章 引っ越し
古川静弘が手のひらで大事にしてきた元カノと、古川静弘の妻。
どちらを見ても、羽鳥秋葉が須藤篠華に不満を抱くのは当然だと、誰もが思う。
羽鳥秋葉は礼儀正しい笑みを形だけ浮かべた。
「そんなこと……。お帰りなさい。歓迎します」
「そうだ。秋葉、フラワーアートスタジオを始めたんですって?」
須藤篠華はくるりと古川静弘へ向き直り、甘えるように頬を膨らませる。
「静弘ったら、ひどい。私に何にも教えてくれないんだもん。うちの会社のイベントの花、これからは全部秋葉にお願いすればいいよね?」
古川静弘は淡々と。
「……ああ」
「じゃあ、決まりね」
須藤篠華はぱっと花が開くように笑った。
「秋葉、これからよろしくね」
その落ち着きと社交性に、周囲は「さすがだ」とでも言いたげな視線を送る。
羽鳥秋葉の耳に、少し離れたところでひそひそ交わされる声が刺さった。
「須藤篠華のほうが、どう見ても古川奥さんって感じだよね。本人が戻ってきたのに、偽物がいつまでも居座るとか……面の皮厚すぎ」
「だよね。わざわざ晩餐会にまで来て、気まずくないのかな」
「見てなよ。古川社長、そのうち離婚させるって……」
次の瞬間、下腹がきゅう、と波打つように痛み、背中に冷たい汗がにじんだ。
羽鳥秋葉は須藤篠華の手をそっと外す。
「……すみません。お手洗いに」
逃げるようにホールを出る。
背後から、須藤篠華の声がかすかに追いかけてくる。
「静弘……秋葉、まだ私のこと怒ってるのかな……」
古川静弘の返事は、どこまでも平板だった。
「ない。あいつは元々、物分かりがいい」
洗面台に両手をつき、羽鳥秋葉は激しくえづいた。
さっきまでとは比べものにならないほどつらいのに、何も出ない。ただ喉と胃だけが引きつる。
涙と冷や汗が一緒になって頬を伝い落ちる。
鏡の中の惨めな自分を見て、ふっと笑いそうになった。
物分かりがいい――。
古川静弘の中で、自分の価値はそれだけになってしまったのだ。
これが、七年も愛した男。
大学で一目惚れしてからずっと、父の臨終の際に「娘を頼む」と託され、彼女は信じた。自分が手にしたのは愛の結婚なのだ、と。
けれど、違った。
この結婚は最初から、取引だった。
三年前、古川家は資金繰りが途切れ、倒産寸前に追い込まれた。そのとき須藤篠華は、迷いなく海外へ飛んだ。
危機を救ったのは羽鳥家の資金援助だった。
恩返しのため、古川家は古川静弘に羽鳥秋葉を娶らせた。
古川静弘は花束とダイヤの指輪を用意し、形式通りにプロポーズもした。
結婚して三年。
羽鳥秋葉は古川奥さんとしての役を、必死に演じ続けた。
古川家の事業は徐々に持ち直し、古川静弘は彼女に贅沢な暮らしを与えた。けれど、心だけは一度も渡さなかった。
時間がすべてを変えてくれる、と信じた。いつかは自分を愛してくれるはずだ、と。
だが須藤篠華の帰国で、ようやく思い知った。
自分の願いが、どれほど滑稽だったのかを。
トイレを出ると、入口の前に古川静弘が立っていた。眉間に深いしわ。
「……どうした」
その視線が、彼女の青白い顔と、赤くなった目元をなぞる。
羽鳥秋葉は慌てて顔を背けた。
「何でもない。化粧直し」
「秋葉」
古川静弘が一歩、距離を詰める。目が暗く、底が見えない。
「朝からずっとおかしい。何があった」
ふわり。
また、あの香りが押し寄せた。
ブルガリのバイオレット。
その匂いを嗅いだだけで吐き気が込み上げ、羽鳥秋葉は反射的に一歩下がる。背中が冷たい壁にぶつかった。
「だから、何もないって」
「体調が悪いのか?」
古川静弘が額に触れようと手を伸ばす。だが彼女は、さっと避けた。
その仕草が、彼の神経を逆撫でしたのだろう。
古川静弘はさらに一歩踏み込み、壁と自分の身体で彼女を逃がさないように囲い込む。
「何を避ける。俺はおまえの夫だ」
「……もうすぐ、違う」
涙が勝手にせり上がり、視界が滲む。
「古川静弘。この三か月、私たちは名目上の夫婦。だから私生活では……私に近づかないで」
古川静弘の目が、危ういほど暗く沈んだ。
「そんなに俺から逃げたいのか」
「逃げたいのは、あなたでしょう」
羽鳥秋葉はかすかに口角を上げる。嘲りの形にしかならない。
「須藤篠華が戻ってきた途端、離婚に即答した。古川静弘、三年よ。あなた、一日でも私を本当の妻だと思ったことある?」
空気が、凍りついたみたいに動かなくなる。
古川静弘の瞳の奥に、複雑な色が浮かぶ。
何か言いかけた、そのとき――背後から声がした。
「静弘、こんなところで何してるの? みんな探してるよ」
須藤篠華だ。
古川静弘は羽鳥秋葉を一度だけ深く見つめ、結局、そのまま須藤篠華のほうへ向かった。
須藤篠華は彼の腕に絡みつき、甘えた声で言う。
「女トイレの前にいるなんて、びっくり。どうしたの?」
「彼女の具合が悪い。様子を見に来た」
「秋葉に優しいんだね。私、嫉妬しちゃう……」
二人の声が遠ざかっていく。
羽鳥秋葉は膝から力が抜け、ずるりと床に座り込んだ。膝を抱きしめ、押し殺していた嗚咽が漏れる。
古川静弘。
あなたはいつだって、最後に選ぶのは須藤篠華なんだ。
羽鳥秋葉は、家を出ようと決めた。
もう、あれは「家」と呼べる場所ではないのかもしれない。
屋敷の中は静まり返り、自分の心臓の音さえ聞こえそうで、その静けさがかえって胸を冷たくした。
見回せば、置かれているものはどれも彼女が選んだ家具で、角の一つ一つに甘く温かな記憶がある。
なのに今は、それらが全部、自分を嘲笑っているように見える。
結婚して三年。
古川静弘は、この家に一度も心を置いたことがない。
胃のむかつきは消えず、下腹には重い痛みが鈍く居座る。
羽鳥秋葉はそっとお腹を撫でた。
「赤ちゃん……ママ、ここを出ようね」
この場所にいたくない。
古川静弘と向き合いたくない。
なぜなら、この三か月の間に、古川静弘が彼女に夫としての欲求を向けてこない保証なんて、どこにもないから。
それは、赤ちゃんに触れる。傷つけてしまう。
迷わず寝室へ戻り、スーツケースを引っ張り出した。
服は多い。どれも古川奥さんとしての体面を保つための服だ。
けれど選んだのは、ゆったりした着心地のいいものだけ。数着を放り込む。
ドレッサーに並ぶアクセサリーや化粧品には、指一本触れなかった。
そして、ふと思い出したように結婚指輪を外し、机の上へ静かに置く。
荷造りを終え、羽鳥秋葉は最後にもう一度寝室を見渡した。視線が、ダブルベッドをかすめる。
あのベッドで交わしたすべて――甘かった夜も、熱かった夜も。
もう自分とは無関係になる。
片づけている間に古川静弘は帰宅していたが、まっすぐ書斎へ入っていった。
羽鳥秋葉がスーツケースを引き、書斎の前を通り過ぎる。
ドアの向こうから、はっきりと声が漏れてきた。
パソコンのスピーカー越しに響く女の甘い笑い声。
それに重なる、古川静弘の、甘やかすようなからかい声。
もう吹っ切れたはずだったのに、胸の奥がちくりと痛んだ。
心が一瞬、吊り上がり――それから、どさりと沈む。
別れの挨拶なんて、いらない。
このままでいい。
彼女が玄関の外へ出ても、書斎の扉は最後まで開かなかった。
――ただ、彼女は知らない。
二階の書斎、カーテンの陰で古川静弘が静かに立っていたことを。
指の間に煙草を挟み、スーツケースを引きずって門を出ていく彼女の背中を、黙って見送っていたことを。
その夜更け。
古川静弘は秘書へ電話を入れた。
「古川社長?」
真夜中の連絡に、秘書の声がわずかに強張る。
「秋葉が家を出た」
古川静弘は一拍置き、言葉を継いだ。
「仕事の件だ……とにかく、どこに行ったか調べろ。本人には気づかれるな」
秘書は内心で思う。どう考えても家出では、と。
だが社長の面子を潰すわけにもいかない。余計なことは口にせず、
「承知しました」
そう答えた。
切ろうとした瞬間、受話口から低い声が割り込む。
「……待て!」
