第4章 須藤篠華、グループに入社
古川静弘は少し考えてから、電話口に言った。
「前にうちが開発した例のマンション、もう整ってるか?」
「はい、古川社長。家具家電も一式揃っております。いつでもご入居いただけますし、セキュリティも管理体制も最上級です」
「手を回して、彼女を住まわせろ」
一拍置いて、古川静弘は付け加える。
「俺の名義は使うな。管理会社の抽選だとか、賃料優遇だとか……そういう理由にしろ」
秘書が一瞬、息をのむ気配。
「承知しました、古川社長。こちらで確実に処理いたします」
通話を切ると、古川静弘は、ついさっきまで繋がっていたビデオ通話の画面へ視線を落とした。
しばらくして、机の上の目立たない写真立てを、何気ない仕草で手に取る。
そこに収まっているのは、何年も前の古い写真だった。
人混みの中で、羽鳥秋葉が笑っている。目尻がふわりと弧を描き、まだ青さの残る顔立ちなのに、やけに鮮やかで、生き生きとして――瞳はきらきらと光っていた。
指を伸ばし、写真の中の彼女に触れようとする。
ガラスに届く寸前で、その指が止まった。
沈んだ眼差し。夜の色みたいに濃く。
*
羽鳥秋葉はチェーン系のホテルに落ち着いた。
頭の中は、ぐちゃぐちゃだった。
胎を守ること。離婚。部屋探し。アトリエの運営。これからの暮らし。
糸が絡まった塊みたいで、ほどける気がしない。
それでも、あの屋敷を出たあとの胸の空洞は、痛いほどの寂しさを残しながらも――どこか肩の荷が下りたような軽さがあった。
一晩休み、いよいよ部屋を探しに出ようとしたところで、一本の電話が入る。
「羽鳥秋葉さま……で、いらっしゃいますでしょうか」
「はい。どちらさまですか」
「西区豪邸の管理センターでございます。おめでとうございます。前期の抽選で、羽鳥さまが当選されました」
「半年間、無料でご入居いただけます」
「念のため情報の確認をさせてください。いつでもご内覧いただけますし、ご満足いただけましたらそのままお手続き、ご入居も可能です」
羽鳥秋葉は言葉を失った。
「抽選……? 私、参加した覚えがないんですが。何かの間違いじゃ……」
「ご家族か、ご友人の方が、羽鳥さまの情報でお申し込みになった可能性がございます。システム上の当選登録が羽鳥さまになっておりますので」
相手はすらすらと答える。
「羽鳥さま、滅多にない機会でございます。西区豪邸の評判は、この街にお住まいならご存じかと。費用は一切いただきません。まずはご覧になるだけでも」
「もちろん、どうしてもご都合が難しければ、次の当選者に繰り越しも可能ですので」
西区豪邸――羽鳥秋葉も知っている。
三年前、古川静弘が開発に関わったプロジェクトだ。名だたる富豪や名士が、当たり前のように部屋を持つ場所。
本能的に警戒心が立ち上がる。それでも、費用は不要だと言われると、ぐらつく。
今の彼女には、安全で安定した住まいが必要だった。
迷って、迷って――小さく息を吸う。
「……今から内覧できますか」
「もちろんです。私は管理センターにおりますので、いつでもお越しください」
三十分後。
羽鳥秋葉は、豪華なマンションの大きな窓の前に立っていた。足元から街が広がり、灯りの粒が遠くまで連なっている。
ぼんやりする。
出来すぎている。都合が良すぎる。まるで最初から用意されていたみたいだ。
「これ、本当に……抽選の景品なんですか?」
案内役の物件担当者は、いかにも営業用の笑みを崩さない。
「はい、羽鳥さま。開発会社からの日頃の感謝を込めた企画でございます。半年間は水道・電気・ガス、ネットなどの実費のみご負担ください」
羽鳥秋葉は契約条項を二度、三度と読み返した。
落とし穴はない。変な文言もない。
それでも、胸の奥に針のような違和感を残したまま、署名を入れる。
この心地よさと、この安心感――抗えるほど、彼女は強くなかった。
数日間、羽鳥秋葉はアトリエの注文を捌きつつ、新しい生活に身体を慣らした。
同時に弁護士にも医師にも相談し、これから先の「母になる準備」を、ひとつずつ進めていく。
何もかもが、信じられないほど滞りなく進む。
だからこそ、不自然だった。
その日の午後。
車でマンションへ戻る途中、羽鳥秋葉はロビー前で見覚えのある男を見つける。
管理責任者と握手し、和やかに話している。
――古川静弘のトップ補佐。
瞼がぴくりと跳ね、心臓がひやりと鳴った。血の気が、すっと引く。
なるほど。
抽選も、幸運な住戸も、全部――嘘だ。
古川静弘が、秘書に手を回させた。
自分が出ていくのを止めもしないくせに、引き留める言葉ひとつないくせに、こんな最高級の部屋だけは用意する。
半年無料。
追い払い? 補償?
それとも、元妻には遠くで静かにしていろ、とでも言いたいのか。須藤篠華との新しい生活の邪魔をするな、と。
やっぱり――彼は、早く出ていってほしかったのだ。
その頃、アトリエの受注は大きな泥沼に入っていた。
クライアントの要求がとにかく細かい。デザイナーが何十回も修正したのに、首を縦に振らない。
追い詰められたデザイナーが、泣きそうな声で羽鳥秋葉に電話を寄越した。
羽鳥秋葉も、ここ数日情緒が揺れている。妊娠初期の不調も重なり、身体が思うように動かない。
それでも、逃げられない。
気持ちを立て直し、自分で前に出て、クライアントと直接話し合うことにした。
デザイナーと案を詰めている最中、スマホの画面がぱっと光る。ニュースの通知。
古川グループの取締役会に新メンバーが加わる。かつての恋人が目立つ形で入社し、社長の古川静弘氏と並んで就任した。
胸が、かすかに震えた。
消してしまおうとしたのに、指が滑って――記事が開いてしまう。
最初に飛び込んできたのは、やけに鮮明な写真だった。
重厚な会議室。主席に立つ古川静弘。仕立てのいいスーツが、男の輪郭をいっそう際立たせている。
その隣に須藤篠華。品のあるブラウスにタイトスカート。完璧なラインが、遠慮なく目に焼き付く。
彼女は自然な仕草で古川静弘の腕に絡み、視線を交わす。写真越しでも火花が散りそうなほどだ。
記事の文言も煽るように賑やかで、「強者連合」「さらなる飛躍に期待」だとか。
コメント欄には、ひそひそと盛り上がる声。
「やば……この二人、似合いすぎない?」
「恋のキューピッド、間違いなくこの二人に矢を刺してる」
羽鳥秋葉は無言でスクロールし、やがて手を止めた。
そして、画面を消した。
視界がにじむ。胃がむかむかとせり上がる。
つわりなのか――それとも、別の何かなのか。
「こはる」
羽鳥秋葉はアシスタントを呼んだ。
「午後の予約、明日に回して。ちょっと疲れた。先に帰る」
こはるは青い顔を見て、眉を寄せる。
「顔色、すごく悪いよ。大丈夫? 病院、行ったほうが……」
「大丈夫。寝不足なだけ」
バッグを掴み、羽鳥秋葉は立ち上がる。
今日は車が規制日だったし、風に当たりたかった。街を、ゆっくり歩く。
冷たい風が頬を撫でるたび、頭が少しだけ冴えていく。
――これでいい。
彼は彼女をこの高級マンションに押し込み、そのまま会社の中枢へ須藤篠華を迎え入れた。
意味は、これ以上なく分かりやすい。
公寓に戻ったころには、もう夜だった。
部屋は相変わらず、がらんとしている。
古川静弘の屋敷と、何が違うのだろう。
ふと、妙な笑いが込み上げる。
――出てきた意味、あった?
靴を乱暴に脱ぎ、ソファに身体を沈めた。
窓の外で、街の灯りが少しずつ増えていく。ぼんやり眺めているうちに、時間の感覚が溶けていった。
どれほど経ったのか。
玄関のほうから、ロックが外れる電子音――「ピッ」という乾いた音がした。
羽鳥秋葉の息が止まる。
全身が強張り、指先まで冷えていく。
指紋ロックは、今日自分が登録したばかりだ。
自分以外に――誰が、何の前触れもなく、このドアを開ける?
