第5章 スタジオが苦情を受ける
玄関の灯りがぱっと点き、古川静弘が暖色の光を背負って入ってきた。
まるで自分の家に帰ってきたみたいに、昼間と同じスーツ姿のまま。ただ――ネクタイだけが緩んでいる。
入るなり彼は手慣れた動きでコートをドア脇のハンガーに掛けた。
「……どうして暗証番号、知ってるの?」
羽鳥秋葉の声が、少しだけ掠れていた。
「おまえに用意した部屋だ。俺が番号を知らないほうがおかしいだろ」
古川静弘はまっすぐ、向かいの一人掛けソファへ腰を下ろす。視線が彼女の、血の気の薄い顔をなぞった。
「住み心地はどうだ」
「結構です」
秋葉は目を逸らす。
「古川さん、お気遣いどうも」
古川静弘はそこには触れず、淡々と告げた。
「篠華が今日から入社した。ブランド戦略部の部長。取締役会も承認済みだ」
秋葉は口元だけで笑う。
「ニュースで見ました。おめでとうございます」
「連絡したのに、どうして来なかった」
追及する声。
秋葉は面倒を飲み込むように言った。
「体調が悪かったので」
そして、間髪入れずに聞き返す。
「……それで? 私に何の用ですか」
古川静弘の表情に、わずかな驚きが走った。彼女の冷たさが意外だったのだろう。
短い沈黙のあと、彼は言う。
「海外から戻ったばかりだが、あのポストは篠華に合ってる。それに、彼女が入れば家のコネも動く」
――説明しているつもりなのだ。
けれど秋葉には、それを受け取る余裕も興味もない。
「会社のことは私には関係ありません。好きに決めてください」
「関係ある」
古川静弘がまっすぐ見据える。
「約束しただろ。三か月のあいだ、おまえは俺の妻だ。やるべきことはやってもらう」
可笑しくて、声が少し高くなる。
「古川静弘。須藤篠華が取締役会にまで入ったのに、私みたいな名目だけの奥さんが必要ですか? 余計じゃないですか」
「場が違う」
古川静弘は眉ひとつ動かさない。
「彼女には、今やらせるべきじゃないこともある」
「だから何?」
胸の奥の火が、またふつふつと立ち上る。
「今夜わざわざ来て、私に新しい仕事を押しつけるため?」
「来週末、古川グループの慈善オークションの晩餐会がある。例年、おまえが全体の進行と当日の取りまとめをしてきた」
命令口調が当然のように続く。
「篠華は帰国したばかりで時差もあるし、引き継ぎも山ほどだ。今回の準備はおまえがやれ」
――理解した。
須藤篠華には、格の高い“経営の仕事”がある。
一方、手間と気遣いばかりが要る雑務、顔を出して「古川夫人」の評判を保つ役目は、いつもどおり自分。
三年間、慣れきった役回り。
その理不尽な当然さが、秋葉の体から力を奪った。
「私、古川さんからお給料をいただいた覚えはありません。正直、もう疲れました」
乾いた笑いが漏れる。
「それに、こういうのこそ須藤さんに“お試し”でやらせたらどうです? あなたたち、天性の一対なんでしょう」
古川静弘の眉間がきゅっと寄る。指先に力が入り、勢いよく立ち上がった。
「羽鳥秋葉、何を言ってる。三年間、おまえはずっと聞き分けがよかっただろ。くだらない嫉妬みたいなことを言って、何になる」
「何にもなりません」
秋葉も立ち上がる。目だけが頑固に揺れない。
「……分かりました。晩餐会の準備、やります。三か月の“最後の義務”として」
そして一語ずつ、噛んで落とした。
「でも古川静弘、忘れないで。これが最後。三か月後、あなたと私――私たちは、もう他人です」
息をつくように告げる。
「遅いので、お帰りください。疲れました。休みます」
踵を返し、寝室へ。扉が――バタン、と鳴った。
古川静弘は廊下に立ち尽くす。
もしこの瞬間、秋葉が目の前にいたなら、きっと驚いただろう。
古川静弘が、こんな顔をするのを見たことがない。
瞳が揺れている。そこに宿るのは、隠しきれない痛み。
「……宴会の出席者リストは、明日、秘書に送らせる」
しばらくして、玄関のドアが閉まる音がした。
寝室の中で、秋葉は扉にもたれたまま、ずるりと床へ座り込んだ。
無意識に下腹をかばう。
俯いて、顔を膝に埋める。
「……赤ちゃん、ごめんね。ママ、もうこれで最後。あの人のことで傷つくの、最後にする」
冷たい床に長く座っていた。手足がじんと痺れるほどに。
やっとのことで立ち上がったとき、下腹がきゅ、と小さく引かれるような――馴染みのない感覚が走った。痛みはない。それでも心臓がひやりとする。
ゆっくりベッドへ向かい、横になる。手はずっとお腹にそっと重ねたまま。
「赤ちゃん……元気でいて」
小さな声。自分に言い聞かせるみたいに。
*
翌朝早く、古川静弘の秘書から慈善晩餐会の詳細資料が届いた。
名簿は長い。財界の重鎮、映画やドラマのスター――そしてもちろん、須藤篠華の両親。
短期間で会場を押さえ、酒類とコーヒーの手配を済ませ、進行を固め、席次まで組まなければならない。
気力を削られる仕事だ。
上流階級は、離婚だの破局だの絶縁だのが当たり前のように混じる。取引先もいれば競合もいる。
誰を隣に置き、誰を遠ざけるか。そこには厄介な作法がある。
ひとつでも躓けば、笑いものになるだけじゃ済まない。
空気を悪くすれば、次からは誰も相手にしない。
秋葉は眉間を押さえた。
古川静弘が、わざわざ押しかけてまでこの役目を自分に投げた理由も分かる。
須藤篠華は海外帰りで、国内の人間関係の地雷が見えていない。捌けるはずがないのだ。
頭の中で大まかな段取りが組めたところで、秋葉は資料を閉じた。
自分のアトリエにも、厄介ごとは山積みだ。
気合を入れ直し、先に工房へ向かった。
着いた途端、スタッフに取り囲まれる。
「秋葉さん、やっと来た……! 昨日帰ったあと、うちの店、プラットフォームで匿名アカウントに一斉に通報されました!」
「花が新鮮じゃないとか、粗悪品を混ぜてるとか、めちゃくちゃです!」
「評価、もう☆3.5まで落ちてて……これ以上増えたら、アトリエ自体が表示停止になります!」
「そんな……!」
秋葉は慌てて管理画面にログインし、視界が暗くなる。
ずらりと並ぶ低評価と通報が、トップのレビュー欄を埋め尽くしていた。
オンラインは、工房の重要な受注経路だ。
ここを止められたら――ほとんど廃業と同じ。
「通報の内容、写真は?」
「あります。でも写真の花、うちの作風じゃないし、ラッピングも違います。どう見ても、わざと嵌められてます!」
こはるが今にも泣きそうな顔で言う。
「それと、さっきから提携先にも電話が入ってて、何社も契約打ち切りって……昨日まで話まとまってたのに! この通報と悪評のせいですよ、絶対!」
胃の奥がぐらりと反転する。吐き気が込み上げた。
秋葉は大きく息を吸い、無理やり落ち着かせる。
「慌てないで。通報のスクショと、急にキャンセルしてきた会社の情報、全部まとめて私に」
「プラットフォーム側には手順どおり、仕入れの証憑と、作品の実物写真を提出して再審査を申請して」
スタッフたちが一斉に動き出す。
秋葉はこめかみを押さえた。
――その瞬間、頭の中にぱっと光が走る。
おかしい。
これは……何かが、変だ。
