第6章 凶悪なキス
仕事場を立ち上げたばかりの頃ですら、ここまで露骨な悪意をぶつけられたことはなかった。
それに、彼女はただ真面目に商売をしていただけで、誰かの恨みを買うような覚えもない。
人を疑うような真似はしたくない。けれど、アトリエを守るためには――徹底的に調べるしかなかった。
唇をきゅっと噛み、例の低評価を付けた顧客の「背景」を洗う。所属企業、その企業への出資元。
企業情報はサイト上で公開されている。
そして、やはり。
全部、須藤グループの持株会社だった。
羽鳥秋葉の胸の奥が、じわりと冷えていく。
須藤篠華は古川グループに乗り込んで、上から目線で部長面をするだけでは飽き足らないのか。
私の結婚を壊しただけじゃ足りない? まだ、ここまで追い詰めるつもり?
これは何の意味だ。警告? それとも、ただ気に入らないだけ?
胃の中が、またぐるりと掻き回される。
顔色を失ったまま、羽鳥秋葉はふらつく足でトイレへ駆け込んだ。
げぇ、と吐き出すたび頬が引きつり、涙が滲む。喉の奥が灼けて、呼吸が上手く回らない。
大きく息を吸って、鏡を見る。
映っていたのは、泣き腫れかけた目――それでも刃みたいに鋭い視線だった。
羽鳥秋葉は、好き勝手に踏みにじられる女じゃない。
そっちが仕掛けてくるなら――反撃されても文句は言えないよね。
調査画面を閉じ、今度は晩餐会の座席配置図を開く。
須藤篠華と、その両親。主賓席に近い位置に並んでいた名札を、そっと一列だけ後ろへずらした。
ほんの小さな変更。だが、並びは変わる。
そこは古川グループと競合関係にある会社の責任者の隣――名刺交換が「避けられない」場所。
須藤嬢はお暇そうだし、晩餐会で人脈でも広げていただければ?
修正を終えた瞬間、胸のつかえが少しだけ下りた。
夕方近く、アトリエの異議申し立てを提出した、その矢先。
入口のほうがざわついた。
顔を上げると――古川静弘が立っていた。
どこか疲れた様子で、眉間には薄い苛立ちの線。手には書類袋まで下げている。
妙だ。古川静弘がアトリエに顔を出すことなんて、滅多にないのに。
羽鳥秋葉は席を立ち、腕を組む。
「……何しに来たの」
「おまえの様子を見に」古川静弘は軽くパソコンに目をやり、「段取りはどうだ?」
「やってます」羽鳥秋葉は冷たく顔を背ける。「まだ1日でしょ。監督気取りでも、そんなに急がなくていい」
古川静弘は返事もろくにせず、彼女のパソコンの前へ回り込んだ。
画面には、晩餐会の座席表と、装花のデザイン案が同時に開かれている。
「……忙しそうだな」
不自然な言い方だった。
羽鳥秋葉は相手にする気になれず、言葉の端がどうしても尖る。
「ええ、忙しいです。見たなら、もう帰ってくれます?」
古川静弘の眉が寄り、表情が一気に冷える。
「どういう態度だ。俺がわざわざ見に来てやったのに、そんな顔をするのか?」
書類袋を、どん、と机に叩きつけた。苛立ちが空気に滲む。
「羽鳥秋葉、おまえは何を拗ねてる。篠華が戻ってきてからずっと、そうだ。おまえ――」
言いかけて、ふと止まった。
そのときようやく、羽鳥秋葉の顔色に気づいたのだ。
疲労と衰弱。額には冷や汗。唇の血の気はほとんど消えている。
「……顔色が悪い。どうした」
古川静弘が手を伸ばして頬に触れようとする。羽鳥秋葉は首を傾けて避けた。
「平気。ちょっと疲れてるだけ」
「それが平気な顔か!」古川静弘の声が跳ね上がる。「行くぞ。病院、付き添う」
本気で焦っているようにも見えた。
氷みたいに冷え切っていた羽鳥秋葉の心が、ほんの一瞬だけ揺らぐ。
目の奥が熱い。鼻の付け根がつんとする。
――まだ、私のことを心配する気があるの?
でも、その考えはすぐに押し潰した。
羽鳥秋葉、情けない。
たった少し優しくされた程度で、今までの全部を忘れる気?
息を吸い直し、彼の手を振り払う。
「いらない! 古川さんはお帰りください。私、忙しいんです。あなたが私に押しつけた仕事、まだ終わってないので!」
「羽鳥秋葉!」
拒む態度が、古川静弘の堪忍袋を切った。
こめかみに青筋が浮き、手首をがしっと掴む。痛いほどの力だった。
「ちゃんと話してるのが分からないのか? そのザマで何が忙しいだ!」
「命令だ。今すぐ病院に行け!」
引っ張られ、羽鳥秋葉は足をもつれさせる。転びかけた。
火がついたのは彼女も同じだった。溜め込んだ圧と悔しさが、声を震えさせる。
「行かないって言ってるでしょ!」
胸が激しく上下する。
「あなたに私をどうこうする資格、あるの?! 私のこと、あなたに何の関係があるの!」
その怒鳴り声に、アトリエの空気が凍った。
スタッフたちがそれぞれの席で固まり、そっと顔だけ覗かせる。
引っ張り合いの拍子に、ただでさえ具合の悪い体が前へ崩れる。
古川静弘が反射的に抱き留めた。
ふわ、と柔らかな感触。数日、触れていないせいか、胸の奥が乱暴に騒ぎ出す。
古川静弘の目が翳る。次の瞬間、羽鳥秋葉を押さえ込んだ。
じりじりと近づき、壁と自分の胸の間に閉じ込める。
吐息が絡み、鼓動が相手の耳膜を叩くほど近い。
「……関係があるかって?」
古川静弘が笑った。
「言わせるのか。3か月だけ夫婦を続けるって言ったのはおまえだろ」
「今、俺はまだ夫だ。――それで足りないか?」
怒りと虚弱で赤くなった瞳を見て、古川静弘の胸が波立つ。
そして、躊躇もなく顔を落とし――唇を乱暴に塞いだ。
キスというより、噛みつきだ。
優しさなんて欠片もない。
歯列をこじ開け、舌が入り込み、執拗に絡め取る。まだ足りないとばかりに舌先を挟み、飲み込むように貪った。
息が奪われる。
激しすぎて、羽鳥秋葉は抵抗する力さえ削がれていく。手足がだるく、唇は擦り潰されるように痛い。
限界だった。
羽鳥秋葉は必死に彼を突き放す。
一気に新鮮な空気が肺へ流れ込み、喉からひゅっと掠れた音が漏れた。
涙を溜めたまま、憎しみを込めて睨みつける。
「……あんた……」
「――っ!」
古川静弘が言葉を発する前に、乾いた音が先に響いた。
ぱん、と平手打ち。
「古川静弘……気持ち悪い!」
衝撃で、古川静弘の顔が横を向く。
羽鳥秋葉の掌も、じんじん熱く痺れた。
古川静弘はゆっくり顔を戻し、叩かれた頬を舌で押す。
瞳の奥に濃い闇が渦を巻く。雷が落ちる前の空みたいに。
そのとき、場違いな着信音が鳴った。
古川静弘のスマホだ。
彼は反射的に取り出して画面を見る。表示されていた名前は――「篠華」。
わずかに固まり、羽鳥秋葉をちらりと見る。
羽鳥秋葉は嘲るように口角を引いた。
「出れば?」
古川静弘の表情は複雑に揺れる。
喉仏が上下し、彼は彼女の目の前で通話を取った。
「篠華。どうした」
声色が、露骨に柔らかくなる。
『静弘、今どこ?』
須藤篠華の声は甘く、焦りと弱さが「ちょうどよく」混ざっている。
『ちょっと困ってて……市場部と突き合わせるデータに不整合が出てるみたいなの。向こう、急かしてくるし、私ひとりじゃどうにもならなくて……静弘、来て見てくれない?』
