第7章 古川静弘の世界から消える
羽鳥秋葉は顔を背けた。もう見たくもないし、聞きたくもない。
心臓は、とっくに痛みすら感じないほど麻痺している。残っているのは、底なしの疲労と、骨まで沁みる冷たさだけ。
わかっている。須藤篠華がああいう言い方で彼に声をかければ、古川静弘は、いま何をしていようとすぐに駆けつける。
須藤篠華こそが、彼の選択。いつだって、永遠に。
――ところが。
今回に限って、古川静弘はすぐに言葉を返さなかった。
須藤篠華が、もう一度だけ柔らかく呼ぶ。
「静弘? 何してるの? 今、都合悪いの?」
「篠華」
ようやく返ってきた声は、さっきよりも低く沈んでいた。
「こっちは急用で動けない。データの件は慌てるな。俺の秘書に見させる」
受話口の向こうが、ほんの一瞬しん、と静まる。断られるとは思っていなかったのだろう。
「……そうなんだ。わかった。でも、終わったら必ず折り返してね。待ってるから」
甘く、やわらかく、絡みつくような声。
古川静弘は淡々と「……ああ」とだけ返し、そのまま通話を切った。
羽鳥秋葉は思わず目を見開く。
「珍しいですね。古川さん、今日は“心の恋人”の様子を見に、飛んでいかないんだ」
嘲りを向けても、古川静弘は取り合わない。彼は彼女の手首を掴んだ。
「病院へ行くぞ」
「だから、私は――」
羽鳥秋葉が眉をひそめた瞬間、あの嫌なむかつきが込み上げた。
トイレへ駆け込む暇もない。彼女はその場で身を折り、嘔吐した。
さっき吐いたばかりで、胃の中には何もない。
出たのは酸っぱい胃液だけ。吐き気に胃がきゅっと痙攣し、痛みでしばらく腰が伸びなかった。
「酸水まで吐いておいて、病院はいらないって?」
古川静弘は荒く息を吸い、苛立ちを飲み込むように一歩引いた。
「……もういい。俺に付き添われたくないなら、こはるに付き添わせろ」
羽鳥秋葉も、今日は行かないわけにはいかないと悟った。
彼女は古川静弘の目の前でこはるに電話をかけ、先に車庫で車を出して、アトリエのビルの下で待つよう伝える。
通話を切ると、古川静弘を見もしない。
「これでいい? もう行っていい?」
古川静弘は体をずらし、道を空けた。
羽鳥秋葉が出ていくと、古川静弘は追わなかった。代わりに、彼女の仕事場をゆっくり見回す。
結婚してから、ここへ来た回数は片手で足りるほどだ。
彼は羽鳥秋葉のデスクへ向かった。宴会の段取りがどこまで進んでいるのか、確認するつもりだった。まだ終わっていないなら、少しでも手を貸せるかもしれない。
ファイルを開いた、その瞬間。
別の文書が目に入る。
【悪質なクレームの集計および異議申立て資料】
古川静弘の目がすっと細くなる。内容を、ものすごい速さで追った。
大量の低評価のスクリーンショット。取引を打ち切られた企業名と日時。最初のデザイン案と、会場写真。
その下には、異議申立ての文面が続いている。
眉間の皺が、どんどん深くなる。
古川静弘はスマホを取り、秘書へ電話を入れた。
「古川社長」
「須藤部長のところだ。データが不具合だと言ってる。見に行け。マーケともちゃんと調整しろ」
「承知しました」
「それから……」
古川静弘はモニターを見つめたまま、指をぎゅっと握り込む。
「羽鳥秋葉のアトリエが、最近誰かに狙われてる可能性がある。相手と理由、具体的に洗い出せ」
秘書は一瞬言葉に詰まったが、すぐに返事をした。
「かしこまりました。至急調べます」
古川グループ。
オフィスで須藤篠華は、ゆっくりとスマホを置いた。表情は霜のように冷たい。
古川静弘が、来なかった。
急用? 何の急用が、彼女よりも重要だというのか。
やがて秘書が来たところで、須藤篠華は何度も探りを入れ、ようやく知った。
――古川静弘は、羽鳥秋葉のところへ行っていた。
それを聞いた瞬間、須藤篠華は思わず爆発しそうになった。
秘書が出ていくと、彼女は床まで届く窓の前へ歩み寄り、ビルの下を見下ろした。拳が白くなるほど握りしめる。
海外から戻ったのは、このオフィスのためじゃない。
戻ってきた以上、すべては“正しい位置”に戻るべきだ。
古川家の奥さまの座も、古川静弘のいちばん近くにいる女の座も――本来、彼女のもの。
なのに羽鳥秋葉が、二人の間に打ち込まれた頑固な釘みたいに、ずっと居座っている。
緩みかけているのに、まだ抜けない。目障りで仕方がない。
それに、さっきの電話での古川静弘の声。感情は読み取りづらいのに、確かに“いつもと違う”何かが混じっていた。
少しの後ろめたさ。何かを邪魔されたときの、言いようのない諦め。
――古川静弘は、彼女が思っている以上に羽鳥秋葉を気にしている。
もう待てない。
羽鳥秋葉を、古川静弘の世界から完全に消さなければ。
*
羽鳥秋葉のもとに、思いがけない大型案件が舞い込んだ。
クライアントは、新たに超高級の庭園式ホテルを開業する予定で、造園の設計とフラワー装飾を探しているらしい。
この案件を取れれば、利益はおよそ400万。目の前の危機を越えるのに十分な額だ。
彼女は手持ちの仕事をいったん止め、受注のために全力を注いだ。
何夜も徹夜し、前後で7、8案。クライアントの反応は悪くない。
今日は「しっかり話をしたい」と呼ばれている。
つわりに苦しめられているのに、それでも羽鳥秋葉は来た。
薄いメイクに、白のワンピース。レディースのジャケットを羽織る。
ゆるく巻いた髪を下ろし、茉莉花のヘアクリップ。落ち着きと品の良さが、彼女のセンスを際立たせていた。
フラワーデザイナーは第一印象が命だ。自分すら整えられない人間の装花が、美しいと誰が信じるだろう。
胃が、きゅうっとおなじみの収縮を訴えた。
羽鳥秋葉は急いで小さなバッグから酸梅を取り出し、口に含んで吐き気を押し込める。
現地に着き、彼女は時間を確認した。
面会まであと20分。ならば、とホテルのロビーで待つことにする。
入口正面で、自然の風が流れ込む。少し楽だった。
――が。
ソファに腰を下ろした途端、肩をとん、と叩かれた。
振り向くと、まさかの顔。
須藤篠華。
隙のないほど精巧に整えた装いなのに、今日はどこか気だるげな色もある。手には赤ワインのグラス。
「羽鳥嬢? こんなところで、奇遇ね」
やけに親しげな口調で笑う。
「今日はどうして? お暇で遊びに来たの?」
顔を見るだけで胸がざわつく。とはいえ外だ。羽鳥秋葉は最低限の礼儀だけは保った。
「クライアントと打ち合わせです。あなたは……今日はお休みですか?」
「大変ねえ」
須藤篠華は答えを濁し、にこにこと笑う。言葉の端々に、見下ろすような気配が滲む。
「起業って、何でも自分でやらなきゃいけないでしょう? 体だけは気をつけて。顔色、あまり良くないわよ」
彼女は自然な仕草で手を伸ばし、羽鳥秋葉の腕に触れようとした。いたわるふりの距離の詰め方。
羽鳥秋葉は反射的に身を引こうとする。
その瞬間だった。
須藤篠華の足元、10cmはあろうかという細いピンヒールがぐらりと崩れた。
「きゃっ……!」
彼女の体が前に倒れ込む。
羽鳥秋葉は咄嗟に手を伸ばし、支えようとした。
――しかし。
須藤篠華の手のワインが、ばしゃりと羽鳥秋葉にかかった。
本来なら、羽鳥秋葉は彼女の横から支える形だ。つまり、ワインがこぼれても前に飛ぶはずで――羽鳥秋葉にかかるはずがない。絶対に。
