第2章
イヴリン視点
私は部屋の中で、丸三日も熱にうなされた。
ドアは内側から鍵をかけたまま。誰ひとり入れない。使用人は時間どおりに冷めた食事を運んできて、ドアを二度ノックしたら去っていく。階下はずっと賑やかだった――ジェーンの卒業パーティーの準備で、みんなが忙しそうにしている。
誰も、私の様子を見に来なかった。
三日目になってようやく、母が扉の向こうで何度かノックした。
「イヴリン……ジェーンの卒業パーティー、もうすぐでしょう? よかったらお母さんが一緒にドレスを選びに行こうか。あなたが好きなお店にだって……」
昔の私なら、飛び上がって喜んでいた。
母と買い物に出て、腕にすがり、服を選んでもらう――そんな光景こそ、ずっと夢見てきたものだったのに。
でも、今は……。
「大丈夫。ありがとう」
掠れた声が、自分でも驚くほど他人行儀だった。
扉の向こうが数秒、しんとする。やがて小さなため息と、遠ざかっていく足音が聞こえた。
パーティー当日の午後、熱は少し引いた。
ふらつきながら階段を下り、踊り場に差しかかったところで、父がジェーンの首にダイヤのネックレスをかけているのが見えた。
「よく似合う。うちの娘も大きくなったな」
父は笑って一歩退き、満足そうに眺める。
「よかった。おまえみたいな娘がいてくれて」
そのネックレスを私は知っている。祖母の形見だ。家のしきたりでは長女に受け継がれる――つまり、本来は私のものだ。
「ちょっと回って。お母さんがドレスを見るから」
母はジェーンの裾を整えながら、うっとりした声を漏らす。
「それにしても……あの頃の『取り違え』には感謝しないとね。病院が間違えなかったら、こんなにいい子がうちに来ることもなかったんだもの」
「まったくだ」父が軽く頷く。「今思えば、あれは最善だった」
……私の両親は、その間違いに感謝している。
十五年、私を苦しめて、挙げ句――あの夜だって危うく……。それが、この人たちにとっては「最善」?
「ジェーンお嬢様、なんてお美しい!」使用人たちが周りで口々に褒めそやす。「これぞ本物のお嬢様ですね!」
媚びるような顔を見た瞬間、以前彼女たちに言われた言葉が蘇った。――「ジェーンお嬢様より愛されるなんて夢見るな」「身の程を知れ」。
今、彼女たちはそれを事実で証明している。
吐き気がした。私は踵を返して階段を上り、着替えることにした。パーティーに行きたいからじゃない。行かなければまた「わがまま」「聞き分けがない」と言われるだけだ。
寝間着を脱いだ、そのとき。
ドアがいきなり押し開けられた。
母が立っていた。手には上品なドレスバッグ。顔には、取り繕うような笑み。
そして母の視線が、私のむき出しの背中に吸い寄せられる。
「……っ、なに、それ……!」
悲鳴に近い声。ドレスバッグが床に落ちかける。
さっきまで薄暗くて気づかなかったのだろう。今は窓から差す明るい光の下、背中の傷は容赦なく浮かび上がっていた。ガラス片に裂かれた傷はかさぶたになり、打ち付けた青あざは紫に沈む。海水に浸かってただれた皮膚からは、まだ血が滲んでいた。
母はようやく、私があの沈みかけた船の中で何を味わったのかを見たのだ。
「イヴリン……あなた……」
唇が震えている。
「着替えてるの。出ていってくれる?」
私は淡々と言った。
「だ、だめよ……どうしてこんなにひどいの? なんで言わなかったの!」母は近づこうとする。
「言ったよ」Tシャツを着て、向き直る。「帰ってきた初日に、傷だらけのままリビングに立ってた。みんな、見てた」
母の顔から血の気が引く。
「でも……私たち、てっきり……」
「少し汚れてただけだと思った?」声が氷みたいに冷たくなる。「そうだよね。ジェーンは爪一つ欠けてないんだもん。実の娘の私は、どれだけひどくても死にゃしないって?」
母は言葉を失った。
「……あの夜は本当に事故だったの。混乱してて、私たちも、頭が真っ白で……」母は息を整え、ドレスバッグを持ち上げる。「だからね、これを用意したの。埋め合わせ。パリのコレクションの限定で、お母さん、いろんな人に頼んでやっと……」
昔の私なら、身に余る優しさに舞い上がり、そんな「罪悪感の施し」を宝物みたいに抱えただろう。
でも今は、黙って受け取り、袖を通した。
確かに豪奢だ。でも、明らかに大きい。肩紐は痩せた肩にだらりと落ち、ウエストはぶかぶかで、私をいっそうやつれて見せた。
それに――。
裾に刺繍された、流れるような文字。
「J」。
ジェーンのイニシャル。
私の視線を追った母の顔色が、瞬時に真っ白になる。
「うそ……ごめんなさい!」母は口元を押さえ、声まで震える。「店員が取り違えたの! あなたにって言ったのに……今すぐ新しいのを持ってこさせる!」
慌ててスマホを取り出す母に、私は淡く首を振った。
「いいよ」
ドレスを脱いで、ベッドに放り投げる。
「自分のを着るから」
「違うの、イヴリン、聞いて……!」母は必死に私の顔を覗き込む。悔しさでも怒りでもいい、何か感情が滲めば、それを抱きしめて慰めて、「いい母親」でいられるのに。
けれど母が見つけたのは、何もない表情だけだった。
私は黒いワンピースに着替え、髪を整える。
「行こう。ジェーンを待たせたら悪いし」
階下のリビングでは、ジェーンがシャンパン色のドレスをまとい、――本来なら私の首にあるはずのネックレスをつけて、父と楽しそうに笑い合っていた。
私と母の姿を見つけると、ジェーンはぱっと顔を輝かせて駆け寄ってくる。
「イヴリン! やっと降りてきた!」
彼女は手に、洒落た香水の箱を持っていた。
「イヴリン、これね、あなたのために用意したプレゼントなの! 試してみて、気に入るかどうか!」
私は一度それを見て、受け取ったまま黙っていた。
母がすかさずジェーンを持ち上げる。
「イヴリン、ジェーンの気持ちよ。ほら、クリスマスにフランスへ行ったときに、ジェーンがあなたのために選んだの――だから早く――」
言い終わる前に。
父の顔が硬くなり、肘で母の腕を小突いた。
母は失言に気づいたらしく、みるみる血の気が引く。
「ち、違うの……えっと、私が言いたかったのは……」
クリスマスにフランス旅行。
あの頃、私はインターン先の休みで家に戻った。なのに玄関は鍵がかかり、家の中に誰もいなかった。電話をかけても、揃いも揃って「出張」と言ってはぐらかした。
私は空っぽの邸宅で丸一週間を過ごした。
デリバリーで食いつなぎ、窓の外のよその家のイルミネーションを眺め、誰かが帰ってくるのを待ち続けた。
出張なんかじゃない。
三人家族だけの旅行だったのだ。
最初から、気づくべきだった。
母は必死に取り繕う。
「イヴリン、あれは本当に急に決まったの……本当はあなたも呼ぶつもりで……」
「そうそう!」父も慌てて重ねる。「おまえ、インターンが大事だって言ってただろ? 邪魔しちゃ悪いと思って……」
「いいんじゃない」
私は二人の言い訳を遮り、香水をテーブルに戻した。
「プレゼントのこと、思い出してくれただけでも」
