第2章

林田唯月はもう矢吹薫を振り返らなかった。スーツケースを引き、玄関へ向かって歩き出す。ダイニングの前を通りかかったとき、椎名伴凪が壁にもたれ、使用人にあれこれ指図しているのが目に入った。

「ネギは抜いて。薫、嫌いだから」

「油っこくしないで。薫、最近胃が弱いの」

――まるで、この家の女主人みたいな顔。

林田唯月に気づくと、伴凪は馴れ馴れしく寄ってきて手を取った。

「唯月姉さん、まさか本気で怒ってるの?」

「私のせいで薫と喧嘩しないで」

林田唯月は笑って彼女を見た。

「もし、本当にあなたのせいで私が矢吹薫と喧嘩してるなら……今すぐ出ていってくれる?」

椎名伴凪は一瞬、顔が固まった。握っていた手が気まずそうに離れる。

「……もし本当に私のせいなら……すぐ出ていく」

「じゃあ、出ていって」

林田唯月は口元に薄い笑みを浮かべたまま、静かに伴凪の芝居を眺めた。

そのとき――バタバタと慌ただしい足音。

矢吹薫が駆け込んできて、反射的に椎名伴凪を抱き寄せた。

「林田唯月! 伴凪をいじめるな!」

妻は自分なのに。

矢吹薫が林田唯月へ向けた視線には、嫌悪と警戒しかなかった。

爪が掌に食い込み、胸の奥が鈍く痛む。林田唯月は自嘲気味に息を漏らす。

追い出せるはずがない。彼の心の人だ。

前から勝てなかった。まして今は――彼の子まで宿しているかもしれない。

林田唯月はポケットから鍵を出し、玄関の棚に置いた。何も言わず扉を開け、そのまま外へ出る。

背後から、氷みたいに冷えた声が落ちてきた。

「林田唯月、覚悟はいいな?」

「その扉を出たら、お前の母親の医療費は今すぐ止める」

午後に戻ったときは晴れていたのに、いつの間にか雨が降っていた。叩きつけるような大粒の雨が地面を濡らし、林田唯月のスカートの裾を一瞬で汚す。

彼女は答えない。傘を開き、歩き出した。

矢吹薫と一緒に過ごした十年。完全に切れる今日が、痛くないはずがない。

屈辱じゃないはずがない。

幸せにすると誓った男が、人生でいちばん痛い教訓をくれた。

胸の中をぐちゃぐちゃに掻き回され、林田唯月はタクシーを止めて病院へ向かった。

病室の前。小さな窓越しに見えた母は、管だらけで横たわっていた。林田唯月は扉を押し開け、静かに入る。

病気になってから、母は一気に老けた。覇気も薄れ、瞳も以前ほど強くない。林田唯月を見ると、目がわずかに動いた。

「矢吹くんは……?」

人工呼吸器越しの声はくぐもっている。

林田唯月は深く息を吸い、首を横に振った。

「忙しいの」

母の視線がスーツケースへ落ち、震える指がそれを示した。

林田唯月は笑い、母の手を包む。

「お母さん、私が代わりに出張に行くだけ。明朝の国際便だから、今夜は顔を見に来たの」

その言葉に母はようやく安心したように頷き、かすれた息で言った。

「嘘はやめてね……」

「矢吹くんと……仲良く……」

林田唯月はただ頷き、俯いてリンゴの皮をむいた。

言えるはずがない。

矢吹薫と、もう「仲良く暮らす」なんて無理だと。

彼は浮気した。

そして私は、もう長くない。

けれど、母に嘘をついたわけでもなかった。明日、本当に国際便に乗る予定だ。

矢吹薫のためじゃない。

自分のために。

結婚前から、北欧へ行きたかった。スキー、オーロラ。

矢吹薫は言った。新婚旅行はそこへ行こう、と。

結婚して七年。

約束は果たされなかった。代わりに、椎名伴凪を連れて行った。

「伴凪は身体が弱い。療養ついでに行っただけだ」

「なんでそんなに細かいんだ?」

「行ったからって、お前が行けなくなるわけじゃないだろ」

あの冷たく不耐な声が、まだ耳に残っている。

無意識にナイフを握る手に力が入った。次の瞬間、指先に鋭い痛みが走る。

茫然と見下ろすと、血が滲んでいた。

慌ててリンゴを置き、洗面所で傷口を流水に当てる。切り口は思った以上に深く、白い陶器がじわじわ赤く染まっていった。

そこへ看護師が二人来て、手を洗いながらひそひそ話している。

「ねえ、今日見た? 矢吹グループの社長、矢吹薫が奥さん連れてたの。写真回ってきたけど、めちゃくちゃ甘かった」

「見た見た。私もあんなふうに、心の底から大事にしてくれる男に出会いたいなぁ」

午後に見た光景が、また脳裏に突き刺さる。胸の奥がずきずきした。

矢吹の奥さんは、私なのに。

今の私は、むしろ日の当たらない浮気相手みたいだ。

冷たい水で指が痺れ、林田唯月は息を整えて感情を押し込める。するとスマホが震えた。母の主治医からだ。

出ると、医師は言いにくそうに告げた。

「林田さん……矢吹グループのほうから連絡がありまして。お母様の医療費の支払いが停止されました」

「分かっています。すぐ私が払います」

通話を切り、絆創膏で指を巻く。会計窓口へ向かった。

彼女の貯金は、昔、矢吹薫のために昼も夜もなく接待し、契約を取って得た報奨金だ。

暗証番号を入力すると、窓口の職員が困ったように首を振った。

「申し訳ありません、林田様。こちらのカード、凍結されていて使えません」

耳の奥で、どん、と音がした。

――分かっている。矢吹薫の仕業だ。

こうして追い詰めて、折らせるつもりなのだ。

怒りが一気に頭頂まで駆け上がる。震える指で矢吹薫に電話をかけた。

呼び出し音。

出ない。

もう一度。

切れかけたところで、ようやく男が気だるげに出た。

「どうした」

「矢吹薫、私のカード止めたの? 何の権利があって!」

胃が引きつり、胸の奥が波打つ。林田唯月はその場にしゃがみ込み、痛みを堪えた。

「分かってる? あれは母の命綱なの!」

「分かってる」

矢吹薫は淡々と言った。

その軽い一言で、言葉が全部喉に詰まった。

林田唯月は髪に指を突っ込み、絶望に崩れそうになる。

「あなた、もう私のこと愛してないんでしょう?」

抑えていた声が、尖っていく。

「だったら、お互い解放しようよ!」

「椎名伴凪と一緒になればいい。だからお願い……母だけは、放っておいて」

沈黙のあと、矢吹薫がゆっくり言った。

「林田唯月。伴凪が一番大事な試合のとき、お前が彼女を嵌めて出場できなくしただろ」

「その時、今日のことを考えたか?」

涙が大粒で落ちた。

もう説明したくなかった。何年も、何度も言った。けれど彼は一度も信じなかった。

林田唯月は乾いた笑いを漏らす。

「矢吹薫……私が死ねば」

「母を放してくれる?」

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