第3章

矢吹薫の声は氷みたいに鋭かった。

「お前みたいな人間が、死ねるわけないだろ」

林田唯月は大きく息を吸い込む。絶望の底で擦れた声。

「矢吹薫……私、矢吹グループのコアプロジェクトのデータ、全部持ってる」

「今すぐ凍結を解除しないなら、すぐライリー・グループに渡す」

「それから、あなたと椎名伴凪が私の目を盗んでやってきたこと、全部公表する」

「彼女が浮気相手だって、世間に叩かれるのを……あなたは見てればいい」

「賭けられる? あなたは」

「脅す気か?」

矢吹薫の声に、重みが増す。

林田唯月は傍らの椅子に手をつき、身体を起こした。

「あなたの目には、私はそういう女なんでしょう?」

「だったら、脅して何が悪いの」

その一言が可笑しかったのか、矢吹薫は鼻で笑った。

「なら、やってみろ」

ガラスに映った自分の顔は、死人みたいに青白い。

林田唯月の声は、さらに薄くなっていく。

「私なら、殺してもいい」

「でも――母はだめ」

「もし母に何かあったら……矢吹薫」

「あなたの大事な女に、母の墓までついて来てもらう」

言い捨てるようにして通話を切った。

胸が荒く上下し、胃の奥がぎゅう、と締めつけられる。

視界が滲み、音は深い霧の向こうみたいにくぐもった。

ふらつきながら立ち上がり、踏み出そうとした瞬間――膝が折れる。

そのとき、長い腕が彼女を支えた。

林田唯月が息を整え、顔を上げる。

見覚えのある横顔。先輩の江口未黒だった。

……

それから三十分後。

江口未黒が病室に入ってくる。

「おばさんの医療費、払っておいた。荷物も運んである」

「おばさんにも、うまく説明しておいたから」

「今は安心して、休め」

林田唯月はベッドに腰を下ろしたまま、血の気のない顔で頭を下げる。

「ありがとうございます、先輩……このお金は借りたってことで」

「カードの凍結が解除されたら、すぐ返します」

江口未黒はベッド脇の椅子に座り、眉間に皺を寄せた。

「唯月。俺にそんな遠慮はいらない」

林田唯月は薄く笑って話題を変える。

「先輩、どうして病院に?」

江口未黒は検査票を軽く振った。

「母の健康診断の結果を取りに来た。まさか君に会うとはな」

「……本当に、久しぶりですね」

林田唯月の声は弱々しい。

「そうだな。君に振られてから、会ってない」

江口未黒は椅子に背を預け、脚を組む。仕立てのいいスーツがよく似合い、赤い革靴の裏が白い床に映えた。

林田唯月は俯いた。点滴の腕は、冷たくて痺れるほど。

あの頃、江口未黒が彼女を追いかけ、大学中が騒ぎになった。

それでも彼女の目は、矢吹薫しか見ていなかった。

「……すみません、先輩」

声は、糸みたいに細い。

江口未黒はポケットから小さな湯たんぽを取り出し、点滴の手の上にそっと置いた。

「謝らせるために言ったんじゃない」

「矢吹薫を責めてるんだ。君をちゃんと守れてない」

「愛してないなら離婚すればいい。傷つけるなんて、男じゃない」

慰めがなければ、何があっても耐えられた。

でも、理解された瞬間、堰が切れた。

鼻の奥がつんと熱くなるのを堪えながら、林田唯月は言った。

「先輩……私、治療をやめようと思ってた」

「……秘密にしてくれますか」

江口未黒の手が、わずかに震えた。

「どうして? 金の問題か……」

「違います」林田唯月は首を横に振る。

「先輩、聞かないでください」

「もう……過ぎたことだから」

江口未黒は涙を溜めた目を見て、長く息を吐いた。

そして、優しく頭を撫でる。

「分かった。君の言う通りにする」

彼は林田唯月のスマホを取り、解除を促して自分の番号を登録した。

「今夜は一度帰る。明日、退院の迎えに来る」

「休め」

林田唯月は頷いた。

明日、国外へ出るつもりだとは言えなかった。

――翌朝。

誰にも告げず、病院からタクシーで空港へ向かった。

保安検査に入る前から、スマホが震え続ける。江口未黒だ。

連絡を入れようと思った矢先、メッセージが届いた。

【唯月、おばさんが……!】

林田唯月はその場で固まった。慌てて電話をかけ直す。

向こうは騒然としていた。ストレッチャーの車輪の音、看護師と医師の叫び声。

途切れ途切れの音の中で、事情だけは聞き取れた。

椎名伴凪だ。

見舞いのふりをして母のもとへ行き、その最中に「離婚の話」をうっかり漏らした。

母はいま弱っている。刺激に耐えられるはずがない。

林田唯月は考える暇もなく、タクシーで引き返した。

手術室に駆けつけると、江口未黒、椎名伴凪、矢吹薫が揃っていた。

椎名伴凪はか弱く矢吹薫に縋りつき、泣きながら言い訳する。

「薫、私、本当にわざとじゃないの!」

「昨日、唯月さんが病院に来たのって……てっきり、おばさんにその話をしてるんだと思って……」

矢吹薫は背中を撫で、優しく言った。

「お前のせいじゃない」

その光景が林田唯月の目に焼きついた瞬間、怒りが頭のてっぺんまで噴き上がった。

口の中に鉄の味が広がる。

彼女は近づき、椎名伴凪の髪を掴んで矢吹薫の腕の中から引きずり出した。

矢吹薫の顔が真っ黒になる。

「林田唯月! お前、正気か!」

林田唯月は深く息を吸い、振り向きざまに矢吹薫の頬を叩いた。

乾いた音。全力だった。

彼の顔が横に弾かれ、彼女の掌が痺れて熱い。

「矢吹薫、昨日言ったでしょう。母に手を出すなって!」

怒りで声が震える。

「今日、母が無事ならそれでいい」

「でも、もし取り返しがつかなかったら――」

「椎名伴凪は、私が殺す」

「必ず」

髪を掴まれた椎名伴凪は床に膝をつき、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま手を振り回す。

「薫、助けて……痛い……!」

矢吹薫は息を整え、林田唯月を宥めようとする。

「怒りは俺に向けろ」

「まず離せ。伴凪は今、刺激に耐えられない」

林田唯月は冷笑した。

「可哀想? 焦ってる?」

「あなたは殴っていいのに、元凶のこいつが殴られちゃいけない理由は何?」

矢吹薫の声が低く沈む。

「言っただろ。殴るなら俺だ。伴凪を離せ」

林田唯月は膝をついた椎名伴凪を見下ろし、口元に冷たい笑みを浮かべる。

そして手を振り上げ、椎名伴凪の頬を叩いた。

矢吹薫が止めようと踏み出した瞬間、江口未黒が立ちはだかった。

矢吹薫の目が細くなる。

「どけ」

林田唯月はさらにもう一発、椎名伴凪を叩く。声は氷みたいに冷たかった。

「矢吹薫。どうして言えないの?」

「刺激に弱い理由なんて――」

「腹の中に、あなたの子がいるからでしょう?」

「日の当たらない浮気相手が産む、日の当たらない雑種」

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