第5章
林田唯月は、目の前の男を見据えた。
そこにあるのは、計算と嫌悪だけ。
――怖い。
――知らない人みたいだ。
この瞬間、はっきり分かった。
目の前の矢吹薫は、もう彼女の記憶の中の少年じゃない。
胸の奥から、濃い後悔と、息が詰まるような虚無が一気に押し寄せる。
林田唯月は唇の端を引きつらせ、泣いているのか笑っているのか分からない顔で、かすかに笑った。
「矢吹薫……やり直せるなら、私は絶対にあなたを愛さない……」
矢吹薫の瞳が、びくりと揺れた。
その一言が深く刺さったみたいに、指先の力がぐっと強まる。荒い息。
「林田唯月、話を逸らすな!」
林田唯月は視線をそらし、病床へ向けた。
皮だけを残したような母の身体。かすかに上下する胸。
燃え上がっていた怒りが、氷水を浴びせられたみたいに一瞬で冷え切る。
――この男は、何でもする。
自分は、あと数か月。
でも母は、これ以上巻き込まれるべきじゃない。
室内には機械の電子音だけが響いている。『ピッ、ピッ』と、淡々と。
やがて林田唯月は唇を動かした。
声は擦れて、言葉ひとつ吐き出すのにも全身の力が削られる。
「……出ていけ」
「唯月姉さん、ごめんなさい。薫も私のこと心配で……」
椎名伴凪が空気の変化を察したのか、涙目のまま矢吹薫の腕にすがりつく。
「薫、私……」
「気が変わる前に、出ていけ!」
林田唯月は咆哮した。血走った目が、今にも二人を噛み裂きそうだった。
バタン。
扉が閉まり、室内は静けさを取り戻す。
その瞬間、林田唯月はもう堪えられなかった。
「……っ」
喉の奥から、どろりと血がせり上がり、吐き出してしまう。
ふらつきながら立ち上がり、病床へよろめくように駆け寄った。
母の手を握った途端、張り詰めていた何かが切れる。
子どもみたいに、声を上げて泣き崩れた。
「ママ……私、後悔してる……あんな男と結婚しなきゃよかった」
「ごめん……私が悪い……お願い、起きて……」
「私、もうすぐ死ぬのに……みんな私をいじめる……ママ……」
揺れる視界の端で、ポケットから何かが転がり落ちた。
ころり、と床を転がって、彼女の目の前で止まる。
結婚指輪。
涙で滲む世界の中で、かつて宝物だったそれが鈍く光っていた。
自分は毎日外さなかったのに、矢吹薫は一度も身につけなかった。
守っていたのは、結局、自分ひとり。
滑稽な結婚。
そして、今になってようやく――たった一発の平手で叩き起こされたみたいに、目が覚めた。
林田唯月は指輪を握りしめる。
角が掌に食い込み、じん、と痛い。
投げ捨てたい。
けれど、ふと何かを思い出したように、指輪をそっとポケットへ戻した。
そして、病床の母へ向き直る。
泣き顔のまま、笑おうとして――笑えない笑みを作った。
「絶対に治すから」
翌朝。
林田唯月は濃いファンデーションで憔悴を隠し、傘を差して街で一番大きい質屋へ入った。
カウンターの向こうにいる古川店長の前へ、結婚指輪をすっと押し出す。
「これ……いくらになりますか」
「こ、これは……」
古川店長は息を呑み、目をぎらつかせた。
「控えめに見ても6,000万は固いですよ。お嬢さん、本当に質入れするんですか?」
林田唯月は視線を落とし、静かに頷く。
「ええ。もう必要ないんです」
「先に言っておきますけどね。ここに置いたら、他の人に買われる可能性もあります。商売ですから」
「分かってます」
林田唯月は言葉を遮り、顔を上げた。目には赤い血管が浮いている。
「急いでください。お金が必要なんです」
古川店長は慌てて湯気の立つ茶を出し、愛想笑いを作った。
「承知しました。鑑定して入庫します。問題なければ5分で振り込めますよ」
林田唯月は、やっと喉の奥の塊が落ちた気がした。
胸の中で暴れていた心臓が、少しだけ元の場所へ戻る。
それでも不安で、手を何度もこすってしまう。
その時、病院からの電話が入った。
唇を結び、通話ボタンを押す。
受話口から聞こえてきたのは、事務的な声だった。
「林田様。お母様の医療費、3日滞納です。これ以上支払いがない場合、当院としても強制的な措置を――」
「すぐ払います。少しだけ時間をください」
力が抜けるような無力感が、波みたいに押し寄せた。
それでも――もうすぐ。
振り込みさえあれば、矢吹薫に首根っこを掴まれずに済む。母にもっといい治療を受けさせられる。
林田唯月は店長が消えた奥を見つめ、指先で机をトントンと叩き続けた。
やがて、古川店長が戻ってきた。
だが、さっきまでの笑みは消え、眉間に皺が寄っている。
彼は苛立った手つきで、指輪を乱暴にカウンターへ投げた。
「林田様、うちをからかうのはやめてください。これ、あなたの持ち物じゃない」
「旦那さんが売却に同意しないって連絡が来ましたよ。ぬか喜びさせやがって!」
「……え?」
林田唯月の視界がぐらりと揺れた。
「そんなはずない……これは私の……もう一度見てください!」
声が裏返り、足元が崩れそうになる。
彼女は必死に店長の服の裾を掴み、ピンクダイヤの指輪を差し出した。
「お願い……そんなに要りません。少しでもいい……」
「帰れ帰れ。商売の邪魔だ!」
古川店長は苛立ち、強引に押し出した。
林田唯月はよろめいて尻餅をついた。
身体がばらばらになりそうな痛み。口の中に鉄の味が広がる。
それでも歯を食いしばって立ち上がり、食い下がった。
「安くてもいい……1,000万でも……本当にお金が必要なんです!」
古川店長は穢れでも触ったみたいに顔をしかめ、指輪を投げ返した。
「縁起悪い! ここに来る奴はみんな金がないんだよ!」
「盗んだもん売りに来るな!」
「次来たら容赦しねえぞ!」
バタンッ!
扉が目の前で叩きつけられる。
「あっ――!」
伸ばした指が扉に挟まれた。
鋭い痛みに全身が痙攣し、声にならない息が漏れる。
みるみる腫れ上がり、紫色に変わっていく指先。
林田唯月の視界が、赤く染まった。
――矢吹薫。
逃げ道を、全部潰す気だ。
結婚した瞬間から、彼は計算していたのだ。
林田唯月は震える手でスマホを掴み、矢吹薫に電話をかけ続けた。
一回、二回、三回……。
返ってくるのは機械音声ばかり。切断。切断。切断。
雨に打たれながらも、意地みたいに、狂ったみたいに掛け続けた。
ようやく繋がった。
だが、矢吹薫の声じゃない。
冷えた秘書の声が、感情ひとつ乗せずに告げる。
「奥様。社長より伝言です。椎名様に謝罪するまで、一銭も渡すなとのことです」
ゴロゴロ……ドンッ。
雷鳴が落ち、雨脚が強まった。
濡れた服が重く、冷たく肌に張りつく。
林田唯月は嗄れた声で怒鳴った。
「矢吹薫に代われ!」
「社長の意向です」
秘書は淡々と続ける。
「なお社長より、家の高価な物はすべて社長名義です。転売すれば窃盗扱いになります」
「必要なら警察に送る、と」
