第6章

冷たい雨に打たれながら、通話はまた一方的に切れた。

耳に残るのは、ツー……ツー……という無機質な忙しない音と、さっきの脅し文句だけ。

――また、椎名伴凪。

どうして私が謝らなきゃいけない。

母を植物状態に追い込んだのは、あいつなのに。

林田唯月は怒りに任せてスマホを振り上げ、叩きつけようとした。

けれど次の瞬間、かろうじて残っていた理性が腕を止める。

唯月は深く息を吸い込み、かじかんだ手をこすり合わせ、ふっと白い息を吐きながら軒下へ身を寄せた。

無理やり口角を持ち上げる。笑っているように見せかけて、連絡先を開いた。

上から順に、片っ端から発信する。

「もしもし。私、唯月。吉川社長、今ちょっと手元が厳しくて……少しだけ、お借りできませんか――」

言い終える前に、ぷつり。

耳からスマホを離しもせず固まったまま、唯月は次の番号へ指を滑らせた。

……また、ぷつり。

……次も。

――それでも、次。

……

気づけば一時間が過ぎていた。

雨の幕を、ただ空っぽの目で見つめる。

冷気が骨の奥まで染みていくのに、感覚だけが遠い。

最後の「知っている声」が、電話越しに取り繕った調子で喋り続けていた。

「矢吹奥様、夫婦のことなんて結局は……ね。ちゃんと聞いてあげたほうが……。いや、こちらも助けたいのは山々なんですが、ご主人が命令を出してまして……うちが動いたら明日、潰されますから。矢吹奥様、聞いてます?」

ぷつっ。

通話が途切れた瞬間、林田唯月の手からスマホが滑り落ちた。

バン、と濡れた地面に叩きつけられ、画面が蜘蛛の巣みたいにひび割れる。

――まるで、自分の滑稽な結婚そのものだった。ぼろぼろで、支えようもない。

「矢吹薫……ほんとに、えげつない」

椎名伴凪のために、ここまで追い詰めるのか。

いい。

謝罪だろうが何だろうが――行けばいい。

涙と雨が混ざって頬を落ちる。乱暴に拭っても、止まらない。際限なく流れてくる。

さらに三十分後。

唯月はふらつく身体を無理やり起こした。

濡れた髪が頬に貼りつき、糸の切れた操り人形みたいにぎこちなく、壁に手をつきながら歩き出す。

椎名伴凪の家へ。

……

二時間後。

門の前で、唯月はインターホンを押した。

ピンポーン――

中から、年配の女の弾んだ声が返ってくる。

「伴凪と薫が帰ってきたの? さあさあ、入って!」

扉が開いた、その瞬間。

唯月の瞳の奥で、死んでいたはずの火がぱっと燃え上がった。

忘れるはずがない。

死んでも忘れない顔。

呼吸が一気に荒くなる。

「……あなた……!」

「太田恵美……! この詐欺師!」

太田恵美。

昔、可哀想なふりをして父母の同情を誘い、会社へ入り込み――信頼を食い物にした女。

仲間と組んで機密を売り、家の金を根こそぎ奪って、うちを借金地獄に落とした。

父は、母と自分を巻き込みたくなくて。

二十階から――目の前で飛び降りた。

太田恵美の笑みが、一瞬で凍りつく。

だが、怯えもしない。

嫌悪に歪んだ目で唯月を舐め回すように見た。

「ぺっ!」

唾を吐き捨て、胸を張る。笑みは悪意でねじ曲がっていた。

「おや、林田のお嬢様じゃない。父親、飛び降りたんだって? メンタル弱いねぇ」

「それにあんたの母親、気持ち悪いし」

「顔だけはマシなんだからさ、ナイトクラブで夜勤でもして、股開いて稼いだら? ははは!」

頭の芯が焼ける。

唯月は奥歯で頬の内側を噛みしめた。

肉が裂ける痛みと、口いっぱいに広がる鉄臭さで、かろうじて理性の糸をつなぎ止める。

――なんでだ。

どうして善人が報われない。

どうして悪人が、のうのうと笑って生きている。

赤く充血した目で、唯月は震える声を絞り出した。

「太田恵美……お前みたいなの、地獄に落ちろ」

次の瞬間、身体が勝手に動いた。

髪を掴む。

そして拳を振り抜く。

ドゴッ。

「ぎゃあっ!」

太田恵美は悲鳴を上げ、肥えた身体ごと地面に叩きつけられた。

転がった前歯が、血と一緒に床を跳ねる。

そこでようやく、太田恵美の顔に恐怖が浮かぶ。

這って家の中へ逃げようとするのを、唯月が引きずり戻した。

「助けて! 人殺し!!!」

もう止まらなかった。

唯月は太田恵美に跨り、左右から平手打ちを浴びせ続ける。

バチン、バチン、と乾いた音が玄関先に積み重なる。

太田恵美は息も絶え絶えになりながら、それでも濁った声で呪いみたいに吐き捨てた。

「くそ女……女婿が帰ってきたら……お前、終わり……」

唯月は笑った。

狂ったように、喉の奥が裂けるほど笑った。

襟首を掴み、無理やり引き起こす。

「私が死ぬかどうかはどうでもいい」

「でも太田恵美――私は必ず、あんたを道連れにする」

その目に射抜かれて、太田恵美の身体がぶるりと震えた。

「誰か! 助けて! この女、狂ってる!」

視界の端に、消火器が入る。

唯月はそれを肩に担ぎ上げ、頭上まで振り上げた。

太田恵美は白目を剥き、そのまま気を失った。

「やめろ!」

「母さん!」

背後から、二つの叫び。

次の瞬間、唯月の腕が強く掴まれ、動きを封じられる。

ゆっくり振り向いた先にいたのは、矢吹薫だった。

目に浮かぶのは驚愕と錯愕。

彼は消火器を奪い取って床へ放り、唯月を乱暴に引き起こす。

両腕を背中でねじ上げられ、骨がきしむ。

薫の声は怒りで震えていた。

「林田唯月! また何をやってる! 懲りないのか!」

椎名伴凪は太田恵美に縋りつき、引き裂かれるように泣いた。

振り向いた瞳は、涙の奥に恨みがべったり張り付いている。

そして唯月へ突進し、拳を何度も叩きつけた。

「林田唯月! なんで私のママにこんなことするの!」

「私にやればいいじゃない!」

「死んで償え!」

唯月は呻き、唇を噛みしめて叫ぶ。

「放せ……! くそ野郎、放せ!」

反抗しようにも、薫の力が鉄みたいに固い。

脚も腕も押さえつけられ、唯月はただ一方的に殴られるしかなかった。

痛みが、がんの疼きと絡み合い、身体が勝手に震え出す。

白い肌は薄い紙みたいで、触れたら破れてしまいそうだった。

薫の目に一瞬だけ、揺らぎが走る。

だがすぐに嫌悪が塗りつぶした。

「伴凪が気が済むまでだ」

「林田唯月、これはお前が彼女の母親に手を出した罰だ」

伴凪は目の奥の毒を隠し、母のために怒る「いい娘」を演じる。

そして――唯月の腹へ、容赦なく拳を叩き込んだ。

内臓がねじれる。

熱いものが喉までせり上がり、もう堪えきれなかった。

「……っ、ゔ……!」

「ぶっ……!」

吐き出した血が、伴凪の顔へ散った。

薫の表情が一瞬で変わる。

動揺が走り、押さえる力が緩んだ。

その隙に唯月はよろめき、手すりのそばへ崩れ落ちる。

背中に焼けるような痛みが走った。

それでも唯月は歯を食いしばり、立ち上がる。

真っ直ぐ、気を失った太田恵美へ向かって一歩、また一歩。

薫が訝しげに前へ出て、行く手を塞いだ。

「林田唯月、何をする気だ」

「どけ!」

憎悪を宿した目が薫を射抜き、彼は一瞬、言葉を失う。

「薫! ママにまた手を出す! 止めて!」

伴凪が薫の腕に縋りつき、必死の声を作る。

「私を育ててくれた母なの!」

「林田唯月! もういいだろ、ふざけるな!」

薫は我に返り、唯月を引き戻そうとして――力を抜くのを忘れた。

ぐい、と身体が引かれる。

足元が空になる。

重心を失った唯月は、そのまま階段口へ倒れた。

ごろ、ごろ、と転がり落ちる。

腕が、頭が、折り返しの角へ何度も叩きつけられる。

そして――

ドンッ!

最後の段で、歪んだ角度のまま床に投げ出された。

時間が凍ったみたいに静まり返る。

階段室に響くのは、唯月の荒い、ひゅっ、ひゅっと掠れた呼吸だけ。

そして――彼女の身体の下から、じわじわと広がっていく赤。

床を染める、鮮やかな血の色。

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