第4章 雲泥の差

「牧野晴は善意でお前をかばったんだ。たとえデータを見間違えたとしても、それは好意からだろ。どうしてそこまで噛みつく」

浅見朝治は眉間をきつく歪めた。不満を隠そうともせず、瞳の奥には怒りが渦を巻く。口調は、有無を言わせない。

「晴に謝れ」

オフィスフロアが、しんと凍りついた。

誰もが息を殺す。このタイミングで浅見朝治の機嫌を損ねるなど、自分から火中に飛び込むようなものだ。

玉井彩歌はその場に立ち尽くしたまま、スマホを掲げた指先がわずかに強張る。信じられない、という目で――かつて心から慕った男を見た。

この男にとっては、自分の潔白よりも、牧野晴の感情のほうが大事なのだ。

「私が悪くないのに、どうして謝るんですか?」

彩歌は歯を食いしばり、筋を通した。

「データの不備は赤で注記しました。証拠も出しています。間違っているのは私じゃありません」

下腹が、きゅっと小さく締めつけられる。彩歌は片手を机の縁につき、深く息を吸ってから――浅見朝治の背後に隠れるように立つ牧野晴へ視線を向けた。

「それに、確認もせずに私が不専門だと決めつけて、正しい数値を誤りだと断言したのは牧野嬢です。謝るべきなのは、彼女のほうでしょう」

浅見朝治の顔色が、完全に沈んだ。

従順で、逆らわないはずの玉井彩歌が、ここまで言い返すとは思っていなかったのだろう。

そのとき、指先がそっと浅見朝治の袖をつまんだ。

「朝治さん、もう……いいです……」

牧野晴は目尻を赤くし、声を震わせる。

「私が悪いんです。私が不専門で、データを見間違えたせいで……このお姉さんに誤解させちゃった」

鼻をすすり、無理に笑って付け足す。

「お姉さん、妊娠中ですし……情緒が不安定なのも普通です。お医者さんも、妊婦さんはイライラしやすいって……だから、もう逼らないであげてください」

浅見朝治の視線が、彩歌の盛り上がった腹へ落ちる。机の縁を支える手が白くなっているのも、視界の端に入ったのだろう。瞳の奥の怒りは、少しだけ鎮まった。

そして、吐き捨てるように言った。

「体調が悪いなら休め。だが来た以上、態度は正せ。今回は不問にする。自分をわきまえろ」

それだけ言い残し、浅見朝治は牧野晴を連れて背を向けた。

人がばらけていく。玉井彩歌に残ったのは、意味を含んだ視線ばかり。

「浅見機長、怒るとマジで怖い……でも晴を庇うとこ、かっこよすぎ」

「牧野が助け舟出してくれたのに、玉井彩歌って何をそんなに必死になってんの? 空気読めよ」

……

彩歌は指をぎゅっと握り、胸の奥でせり上がる酸っぱさを押し込める。聞こえないふりをして、席へ戻った。

いい。

どうせ、もう辞める。

残りの数時間さえ耐えれば――。

けれど、放っておかない人間がいた。

「バンッ」

分厚いファイルの束が、半分空になった机へ叩きつけられる。

坂東が、笑っているのか笑っていないのか分からない顔で言った。

「彩歌さん。これ、ここ数か月分の滞留アーカイブ。ちょっと散らかっててさ。部長が明日使うって言ってるから、整理お願い。引き継ぎもほぼ終わったでしょ?」

彩歌は、その山に目もくれない。

「私の担当外です。それに、もう退職しました」

坂東の笑みが一瞬ひきつり、すぐ作り直される。

「細かいこと言わないでよ。長く一緒に働いたんだし。今ヒマなら、手伝ってくれてもよくない?」

わざと声を張る。周囲の視線が集まってくるのが分かる。

彩歌は、くだらない茶番に付き合う気になれなかった。

顔を上げて、坂東を静かに見据える。

目が合った瞬間、坂東の背筋が理由もなく冷えた。

「坂東。さっきの伝票、最終的にシステムへ入力したのはあなたですよね」

彩歌は淡々と続ける。

「原本に私が入れた赤の注記が消えていました。システムに入ってる誤値も、あなたが最後に提出した版と一致してる」

「な、何言って――!」

坂東の顔色が変わる。

彩歌は一歩も引かない。

「ログを見れば分かります」

腹は重い。それでも背筋だけはまっすぐだった。

「意図的な改竄と責任転嫁。重大事故に繋がれば、ただのミスでは済まない。航空安全の責任問題です。今ここで保安と監査に行ってデータチェーンの徹底調査を求めたら……どうなると思います?」

坂東は真っ青になり、唇を震わせたまま声が出ない。

彩歌はファイルの山へ視線を落とす。

「それと、この書類。誰の案件か分かってるはず。誰に媚びたいかは自由です。でも私は踏み台じゃない」

そう言い捨て、引き継ぎ資料を抱えて歩き出す。

背後から、押し殺した悪罵が飛んできた。

「調子乗んなよ! 太ってみっともないくせに、何様? 浅見機長があんたなんか相手にするわけないでしょ! 牧野嬢みたいなのが釣り合うんだよ! あんたが――」

彩歌は足を止めず、部長室へ向かった。

廊下の窓に映る自分は、くたびれた地上係の制服でやけに膨れて見える。すっぴんの顔は疲れ、血色も悪く、黄ばんでいた。

確かに、牧野晴の華やかさとは比べようがない。

引き継ぎを終え、ようやく退勤。

彩歌は早足でエレベーターへ向かった。

下降のふわりとした浮遊感が、下腹の不快を際立たせる。壁にもたれ、掌でそっと下腹を撫でた。

今日は、赤ちゃんがやけに落ち着かない。

ビルを出ると、夕風が冷たい。

外套を寄せ、バス停へ。帰宅ラッシュで人が溢れている。

彩歌は腹を庇い、人波の端に立った。下腹の坠痛が波のように強くなり、思わず身を折る。額に冷や汗が細かく浮いた。

そのとき、低く唸るようなエンジン音が近づいてくる。

見慣れた黒いスポーツカーが、地下駐車場から滑り出た。

助手席の窓が半分下がっている。そこから覗いたのは、牧野晴の甘い笑顔。彼女は浅見朝治に何か囁き、ぱっと花が開いたように笑った。

車内で交わされる小声と笑み。

浅見朝治の横顔は――彩歌が一度も与えられなかった柔らかさを帯びている。

自分に向けられる声はいつも冷たく、表情もほとんど動かないのに。

車がバス停前を通る瞬間、速度が一拍だけ落ちた。

浅見朝治の視線が人波を掠め、だぶだぶの制服に包まれた膨れた影――玉井彩歌を正確に捉える。

オフィスにいた時より、顔色がさらに悪い。腹に手を当て、柵にもたれている。

彼の指先がハンドルを軽く叩き、迷いが一瞬だけ瞳をかすめた。

だが、その瞬間。

「朝治さん、見て! 後ろ、うちの兄の車!」

牧野晴が弾む声を上げた。

浅見朝治がルームミラーへ目をやると、銀色のスポーツカーが並走してくる。冷たい線のボディ。窓が下り、牧野晴の兄が笑みを浮かべて小さく頷いた。

バス停の誰かが小声で息を呑む。

「牧野家の若様じゃない? 帰国して家業継いだって噂の」

「浅見社長の車にずっと張り付いてる。妹の護衛ってやつか」

「牧野晴、強すぎ……名門のトップが二人とも甘やかしてるじゃん」

彩歌は二台が遠ざかるのを見送った。車列の向こうへ消えたところで、視線を落とす。

その瞬間、腹の痛みが鋭く跳ねた。

反射的に柵を強く握る。指の関節が白くなる。

周囲は押し合う人波と雑音、遠くは都会のネオン。

鮮烈すぎる対比。

まるで、同じ場所に立っていても――最初から別の世界を生きているみたいだった。

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