第1章
1
「北倉佳菜、お前、大げさすぎるだろ」
井戸川勇崎の声は冷たく、耳障りだった。明らかに不機嫌さを隠そうともしない。
私は喉を押さえる。気管が急速に収縮していくのがわかる。
舌にはまだイチゴケーキの甘ったるい味が残っているが、呼吸はすでに困難になり、皮膚には赤い発疹が広がり始めていた。
「勇崎さん、ごめんなさい……これがイチゴ味だってこと、うっかりしてて……」
白石楚々は井戸川勇崎の袖を掴み、潤んだ瞳で見上げている。
「本当に、わざとじゃないんです」
「気にするな。こいつがどれだけ神経質か知らないだけだろ」
井戸川勇崎は白石楚々の肩をポンと叩き、慰めるように言った。
「どうせ難癖つけたいだけだ。自分でわかってて食べたんじゃないか?」
「待っ……て……」
私は喉が紙やすりで擦られたような激痛に耐えながら、声を絞り出す。
「病院……に行かないと……」
井戸川勇崎は足を止め、苛立ちを露わにした。
「社内で北倉佳菜がイチゴアレルギーだって知らない奴がいるか? 食べる前に確認ぐらいしろよ。何でも人のせいにするな。それに、俺を試すような真似は一番嫌いだと知ってるだろ!」
説明しようとした。白石楚々はケーキを渡してくるとき、「マンゴー味ですよ」と言ったのだ。けれど、喉が腫れ上がり、もう声が出ない。
「勇崎さん、北倉さん、本当に具合が悪そうですが……」
白石楚々が小声で言う。
「演技だ」
井戸川勇崎は冷笑した。
「行くぞ、会議に遅れる」
彼は白石楚々の手を引き、給湯室を出て行った。
私は壁に寄りかかり、ずるずると床に座り込むと、最後の力を振り絞ってスマホの緊急通報ボタンを押した。
意識が遠のく中、同僚が悲鳴を上げて駆け寄ってくるのが聞こえた。
医者は言った。あと十分遅ければ命はなかったと。
そして、さらに残酷な事実――まだ形にもなっていなかった小さな命が、私の中から消えてしまった。
……
病院での救急処置を終え、身体の状態が安定してから、私は鉛のように重い体を引きずって帰宅した。
リビングの明かりはついていない。井戸川勇崎はまだ帰っていなかった。
機械的な動作で寝室へ向かい、着替えようとしたとき――サイドテーブルの引き出しが半開きになっていることに気づいた。
そこには避妊具の箱が静かに横たわっている。
私は凍りついた。
井戸川勇崎とは、もう一ヶ月も触れ合っていない。
なのに、箱の中身は三つ減っていた。
以前の私なら、この箱を突きつけて問い詰めていただろう。
けれど、今はただ黙って引き出しを閉めた。
スマホが震える。ヘッドハンターの鈴川からのメッセージだ。
『北倉佳菜様、盛世投資銀行があなたの履歴書に大変興味を持っています。明日、面接はいかがですか?』
そのメッセージを見て、三年前を思い出す。
盛世投資銀行の内定をもらって興奮気味に彼に伝えたとき、彼は顔を沈めた。
「あんな激務なところ、毎晩深夜帰りだぞ? 耐えられるわけがない。大体、俺が必要としているのは家庭を守ってくれる彼女であって、仕事中毒の女じゃない」
あの一瞬の躊躇で、私はオファーを蹴ったのだ。
愛のためにキャリアを捨てるなんて。
今思えば、滑稽でしかない。
私は鈴川に返信を打った。
『はい、明日の面接、可能です』
2
井戸川勇崎が帰宅したのは、夜の十一時近くになってからだった。
スーツの上着を無造作にソファへ放り投げると、スマホの画面を見つめながら、だらしなく頬を緩ませている。表情は優しかった。
私は彼のためにスープを作ってあった。「温かいうちに食べてね」と声をかけた。
一時間後。
彼はダイニングテーブルのスープを見て、眉をひそめた。「食べ残しをいつまで置いておく気だ? いちいち言わせるなよ」
「食べ残しじゃないわ。さっき作ったばかりよ。言ったはずだけど」
私は淡々と説明した。
「すっかり冷めてるじゃないか。捨ててくれ」
彼は顔も上げず、指先でスマホを素早くスクロールさせながら、口元に笑みを浮かべている。
スープを作る際、熱湯で火傷をして水膨れになった自分の手を見つめる。
「わかったわ」
ようやく井戸川勇崎がこちらを見た。不満げな表情だ。
「北倉佳菜、午前中のあれは酷い茶番だったな。俺に見透かされたからって、今度は不貞腐れてるのか? そういう態度、本当に胸糞悪い」
「これからは、もうしないから」
「あぁ、態度は改める気があるんだな。覚えておけよ」
彼は適当に相槌を打ち、またスマホに視線を落とした。
私は背を向け、書斎に入るとパソコンを開き、退職届を書き始めた。
「シャワー浴びてくる」
井戸川勇崎が立ち上がったが、二歩ほど進んで足を止めた。
「そういえば、そのイチゴアレルギーの件だけど、今後は気をつけろよ。楚々を困らせるな。彼女は入社したばかりで、まだ勝手がわからないんだから」
つまり、彼は問題が私にないことを理解しているのだ。それでも、どうでもいいと思っている。
キーボードの上に置いた指が震え、一文字も打てない。
突然、スマホが震えた。
白石楚々のインスタグラムが更新されている。
『幸せな一日♡』というテキストと共に、二枚の写真。
一枚目は、井戸川勇崎とのチャット画面のスクリーンショット。彼がお弁当を受け取るのに五分遅れたことを謝っている内容だ。
それに対し、白石楚々はこう返信している。
『謝らないでください、愛はちゃんと受け取りましたからっ』
二枚目は、手の込んだお弁当箱を持って、甘く微笑む白石楚々の自撮り。
私が「いいね」を押す暇もなく、白石楚々から同じ画像が送られてきた。
直後に追撃のメッセージ。
『あっ! 北倉さん、ごめんなさい! 送る相手間違えちゃいました!』
私は返信する。
『見たわ。とてもお熱いこと』
熱愛中のカップルの間に、第三者が入る隙間なんてない。
恋愛において、「先着順」という理屈は通用しないらしい。
私は荷物をまとめ始めた。
八年間の感情が、たった三つのダンボール箱に収まってしまった。
写真、ペアのストラップ、彼がくれたプレゼント――かつては一生の宝物になると思っていたものたち。
「掃除か?」
井戸川勇崎がドア枠に寄りかかり、箱の中身も確認せずに吐き捨てた。
「そうだな、そういうゴミは処分したほうがいい」
ゴミ?
ええ、確かに。処分すべきね。
「そうね」
私はダンボール箱を抱えてマンションを出て、敷地内の公園のベンチに座った。
月明かりが眩しく、地面に散らばる落ち葉を照らしている。
この八年間、私たちは数え切れないほど喧嘩し、冷戦状態になった。そのたびに頭を下げるのは私で、惨めに愛を乞うてきた。
今日だけで、何度「そうね」「わかった」と言っただろう。
そうね、わかったわ。
ええ、問題ない。
うん。
全て順調よ。
ふと、白石楚々の「今日は幸せ」という言葉が頭をよぎる。
私は月を見上げ、口角を無理やり持ち上げて笑ってみた。
「そうね、今日は幸せな一日。何もかも、うまくいってる」
アレルギーのせいで失ってしまった、あの小さな命を除けば。
でも、もうどうでもいい。すべて終わったことだ。
私は笑いながら思う。
ここを去れば、私だってきっと幸せになれる。
なのに。どうして涙が止まらないのだろう。
